見出し画像

「他者の靴を履いてみませんか」  教師に足りない靴・必要な靴

新年度が始まり十日ほどが経ちました。
「子どもたちは、すごく元気で、この子たちとすばらしい学級にしよう」
「この校務分掌になるなんて、やったことがないのに管理職の気持ちが分からない」
「この学年の子どもはあまり得意じゃないけど、一年間うまく行くかどうか不安」
「よし、この学年団の先生と一緒に頑張ろう、分からないことは聞くしかない」
などなど、さまざまな印象をもたれていると思います。
今日は、最近、読んで感銘を受けた書籍「他者の靴を履く」と教師の仕事の関わりについて、今日は書きたいと思います。

1,エンパシー(EMPATHY)とは
著者は、ブレイディみかこさんです。ご存じの方もおられると思いますが、彼女は、『ぼくは、ちょっとイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の著者でもあります。この本の中から独り歩きを始めたと言われる言葉、それが、「エンパシー」です。
「エンパシー(EMPATHY」は、これまで「共感」と訳されてきたようですが、私を含め多くの人は、「共感=シンパシー(SIMPATHYじゃないの」と思うことでしょう。じゃあ、「エンパシー=シンパシー」か、というと、それは違うのです。
その答えをまとめたのが、本著『他者の靴を履く』だと私は思います。本著の14ページには、オクスフォード英英辞典の訳を紹介しています。そこには、こう書かれています。
エンパシー=他者の感情や経験などを理解する能力
シンパシー=①誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
②ある考え、理念、組織などへの指示や同意を示す行為
③同じような意見や関心を持っている人々の間だの友情や理解

また、222ページに以下のような記述もあります。
「靴、とは自分や他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークな個性や心情や培われてきた考え方だ。他者の靴を履くとは、その人になったつもりで想像力を働かせてみることだが、これが「できない」のは、実は生まれ育った育ちとは関係なく、単に「現代人はエンパシーを働かせることの精神的負荷を嫌がるから」という調査結果もある。多くの人々は、エンパシー能力に欠けるのではなく、それを働かせるのには精神的努力が必要だから、他者の靴を履いてみることをできれば避けたいと思っているのだという。」

つまり、シンパシーは、「感情的状態」ですが、エンパシーは「知的作業であり、それができる能力」。「アビリティ(能力)」なのです。

2,最初に履いた「子どもたちの靴」
 大学を卒業した私が、最初に履こうとしたのは、小学校2年生のこどもたち、28名の靴でした。もちろん、それこそ、毎日、全力で子どもたちに寄り添い、必死でしたが、教師としての基本的な能力が身に付いていなかった私にとって、非常に厳しいものでした。どこまでの素直でまっすぐな子どもたちに対して、若いだけのパワーで真っ正面から向かっていったので、その部分は受け止めてもらえましたが、一人ひとりの個性に応じた指導はできませんでした。
 自分自身が教師でなく、まだまだ子どもだったからかもしれません。ただただ自分の思いを子どもたちにぶつけていたんだと反省しています。隣のクラスは、教職二十年目のベテラン先生だったので、私のクラスは、まさに外れのクラスだったことでしょう。

3,次に履いたのは「先輩教師の靴」
 何としても一人前の教師になろうともがいていた私は、同僚の先輩教師の指導を学んだり、相談したりしながら、一つでも多くの指導技術を身に付けようと頑張りました。先輩教師のやることをそのままそっくりまねてもうまく行かず、自分なりにアレンジしても学級の子どもたちは落ち着かず、問題行動は起こるし、授業もなかなかうまく行きませんでした。
でも、そのうち、一週間のうち、何コマかの授業で達成感が得られたり、保護者から指導への感謝のメッセーをいただいたりするうちに、少しずつ教師力が上がっていったように思いました。当時の子どもたちには、本当に申し訳なかった思いでいっぱいですが、一朝一夕に一人前の教師にはなれませんが、教師としての自負をもち全力で取り組んでいました。
こうやって、新年度になると必ず、これからの一年の「自分の師匠」を勝手に決めて、学級掲示や板書の仕方、保護者との連絡の取り方、授業の進め方など、まねていきました。そうすることで、先輩の教師の思いやねらいが見えてきました。「先輩教師=師匠」の靴は、様々なおおきさ、デザイン、色、形があって、自分の指導力を上げるには、格好のお手本でした。

4,日本を飛び出し、「海外教師の靴」を履いた2年間
 教師として5年間務めた後。JICA海外ボランティアとして、中央アメリカのホンジュラス共和国に赴任しました。義務教育も不十分で、農村部のある小学校では、1年生に入学した児童40人のうち、6年後に卒業できるのは、5人ほどでした。8割以上の子どもが中退し、家の畑仕事を手伝ったり、家族の世話をしたりしていました。教師として、何を子どもたちに身に付けさせるべきか、本当に毎晩蝋燭の明かりの下で考えた日々でした。
 また、国から教師に払われるべき給料が8ヶ月分も未払いの状態でした。それでも、教師は、学校で毎日、子どもたちへの授業を続けていました。「この子たちが、未来の私たちの国を造るの。」と笑顔で話す先生方の表情を忘れることはありません。
その一方で、ある中心部の小学校では、年度初めにクラス担任の発表があり、保護者が自分の子どもを入れるクラスを選ぶ「マトリクラ(登録)」が行われていました。衝撃でした。 
「自分が保護者に選んでもらえるだけの仕事ができているか」
「選んでもらえる教師になるためには、自分に足りないものは何なのか」
教師としての自分自身を問い直した瞬間でした。日本で教師を続けていたら、気づかないことでした。帰国してからの自分が、いつも自問自答しているのが、この「マトリクラ」です。

5,やっと気づいて履いた「保護者の靴」
 学校には、保護者から様々な意見や要望が届きます。友だち関係でのトラブル、宿題のこと、授業の進度のこと、けがをした事実関係の究明、勉強の教え方、いじめの加害者や被害者について等々。本当に途切れることがないのが実状です。若い頃は、個別対応に大変さに押しつぶされそうで、あまり、真摯に対応できてない自分がいました。
しかし、我が子を授かり、その成長を傍らで見るようになると「あっ、立てた」「なんか、話している」「すごい、うんちが一人でできた」「お着替えもできた」と一喜一憂している自分がいました。
やがて、園に通うようになると、「お友達と楽しく遊べたかな」「けがはなかったかな」になり、けがでもして来ようものなら、「何があった?誰とどうした?」と慌てる自分がいました。
そうなのです。そのとき初めて「保護者の靴」を履くことができたのです。保護者の感情を親身に理解すること、保護者として自分事として理解できたのです。その瞬間から、私自身の学校での振る舞いは180度変わりました。「連絡帳に書いて伝える」「電話は、その日の早い時間にかけて児童が帰宅するまでに情報を入れておく」「けがをさせた場合は、心を込めて謝る」が当たり前になったのは言うまでもありません。

6,様々な「校務分掌の靴」を履く
教職が長くなるにつれ、次々と校務分掌を任されるとようになりました。視聴覚主任、体育主任、生徒指導主任、研修主任、特別活動主任、学年主任、教務主任なのです。
「やったことないし、大変」「せっかく前の分掌になれてきたのに、また変わるの」
とブツブツ言っていましたが、いくつか任されるうちに、今まで見えていなかった景色が見えてくるようになりました。
(1)体育主任で運動会を仕切るようになると、
①学校全体を意識し、全校児童を無駄なく効率的に動かす方法を考える
②急な天候の変化にも対応できるよう代替案も準備するようになる
(2)生徒指導主任で全校児童に話をしようとすると、
①1年生から6年生にも分かる言葉を選んで的確に説明できるようになる
②限られた時間で伝えるため、小道具も活用し興味関心をもってもらえる話になる
(3)研修主任として先輩教師に指導案の訂正をお願いしようとすると、
①事項の研究計画を隅々まで理解し、筋道立てて説明するようになる
②気持ちよく直してもらえるように、言葉を選びタイミングを計って話かけるようになる
様々な分掌を任されるうちに「他者の靴」を履いていました。すると、その立場に必要な能力が分かり、自然に身に付いていたのです。

6,「管理職の靴」を履く
 現在の私は、「校長の靴」を履いています。管理職の立場は、これまでの靴とはまた異なります。しかし、これまで自分が履いてきたたくさんの靴のおかげで、何とかこなせています。 裏を返せば、「他者の靴」を少しでも多く履いてきた人ほど、校長として、よりよい学校経営ができるのではないかと考えています。学校という狭い世界の中でも、これだけの靴がありました。

7,おわりに 
 今回、いくつかの靴を紹介してきましたが、他者の靴は、無限にあります。そして、実際に全ての靴を履くことはできません。だからこそ、「エンパシー」が必要ではないのでしょうか。
 最後に、改めて著書の中から一部引用します。
『「シンパシーとエンパシーの違いについて応えよ」という学校からの課題二体する、うちの息子の答えは、“to put yourself in someone's shoes”(他人の立場に立ってみると言う英語表現)。そうか、そうだよなあ、もうこれ以上、出しも引きもできないぐらいパーフェクトな答えなよなあと、私が逆にすごく感心させられました。まさに自分を誰かの靴に入れてみることですよね。
 息子が「そりゃあね、履きたい靴もある。臭いのもあるし、ダサいのもあるし、サイズが合わないかもしれないけど、とりあえず履いてみることがエンパシーなんでしょう」と言っていました。』

 新年度になり、さまざま「分掌の靴」を履く機会を得た方も多いと思います。大変ですが、無駄な靴はありません。是非、履いてみて下さい。案外、履きこなせるものです。履き心地を楽しみながら行きましょう。                    

(大賀重樹)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?