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二千坪 中野駅南の「妖怪」の話

二千坪

 隣家に居住していた高級官僚とその家族は戦後になればさんざん世間の耳目を集め、それは現代まで続くのだが、数学者の糖山数実(とうやま・かずみ)にとっては戦時中の、小学校に上がる前に引越してしまった人たちなのであまり覚えていない。
 せいぜい、数実の方の屋敷でたまに開かれた小さい茶会の際の部分的な記憶くらいだ。
 子どものころ住んでいた中野駅南の糖山邸は1、861坪(6、153平米)の大邸宅だった。庭園には茶室が設えられていた。
 屋敷のあるじは数実の祖父、地方銀行幹部の糖山三四二(みよじ)で、社交が大好きなのに無趣味なため茶道を嗜まず道具も集めず茶会も催さず、したがって茶室は宝の持ち腐れだった。
 そのかわり三四二の長男の妻、つまり数実の母親の多栄(たえ)が師事していた茶道の師匠が、この茶室を時おり弟子たちとの身内の茶会に用いていた。
 糖山邸の路地を挟んだ北隣に住んでいたのが官僚の一家だ。
 役所勤めの当時から強烈な個性を持つ人物だったという評判だが、子どもだった数実は接点もさしたる印象もない。
 外地に赴任していて、戻ってくると黒塗りの自動車が家の前の狭い路地まで乗り入れ送り迎えした。その際にひょろっとした影を見かけたことがある程度だ。
 そのころ女学校の生徒だった高官令嬢も、多栄と同じ師匠に習っていたらしく、糖山邸の茶会に来たことがあった。当時まだまだ田舎だった中野には、茶道の師匠が少なかったのだろうか。

 昭和16(1941)年の初夏、数実は屋敷の北の裏庭で、従兄弟が輪回しの玩具を作ってくれるのを見ていた。

注: 桶のたがや自転車のホイールを再利用した輪を棒で押しながら転がす子どもの遊び

 歪んでいるとあまり転がらずに倒れてしまう。数実と同じ屋敷に住む少し年上の従兄弟は、輪をねじったり削ったりして調整してくれようとした。
 だしぬけに生垣の外から甲高い声が聞こえた。
「お隣はねえ、二千坪のお屋敷と言ったって、たかが田舎屋敷じゃなくって? 銀行だか酒屋の社長だか知らないけど、大したことないわ」
 顔を挙げると、泥棒よけに棘のあるカラタチの生垣の隙間から、派手な赤い模様の振袖と、お付きらしい女性が連れ立って通り過ぎるのが見えた。
「だってお父さまのお勤めの方が格上でしょ? ばあや、あたしは貧乏臭い田舎屋敷より都会的な西洋風のお屋敷がいいわ。でもなにしろ今の小っちゃいお家は女学校のお友だちにきまりが悪くって。早く越したいってお父さまにお願いしているのよ」
 赤い派手な色はふたつの家のあいだの路地を通り抜け、数実たちの住む屋敷の西北の茅葺き門から敷地内に入ると、南側の庭園の方に曲がって見えなくなった。
「嫌なやつ」従兄弟は玩具を作る手を止めて、においの強い食べ物を嗅いだような顔つきをした。

 その日の午後、数実がひとりで従兄弟に借りた雑誌『日本理科少年』の「カニンガム彗星のスケッチ」という記事を母屋の庭園に面した広縁で見ているうち、眠くなって寝転がると、半ば開け放たれた夏障子の内の客座敷に誰か入ってくる音が聞こえた。
 次いで茶室で焚いた香の匂いがして、母親の多栄が、茶事を終えた師匠をねぎらうため座敷に招き入れていた。
「お隣のお嬢さんの衣装、あれはすごいわね」障子の外の児童には気づかぬ様子で、年配の師匠は興奮気味にひとの噂話をした。「単衣でしかも花柘榴の手描き友禅よ。今のこの時期しか着られない振袖を誂えるなんて豪勢だわ」

 師匠曰く、もともと単衣は初夏と秋の初めという限られた季節のものだ。着物の柄に夏の花である花柘榴が描かれていれば、秋には季節外れになるため初夏しか着ることができない。高価な振袖を惜しげもなくそういうふうに誂えるとは。
 付け加えると振袖は未婚女性の正装ということになっていた。当時の女性は現代よりだいぶ早く結婚したので、つまり着る機会が何回あるだろうかという贅沢な衣装だ。
 茶会は季節や趣旨によって道具や花や書に趣向が凝らされ、茶席の着物は趣向の邪魔をしないよう無地など地味なものがふさわしいとされる。地味とは言っても値段を聞けば驚くのだが、資本家の長女にして合理的な多栄は、呉服商に季節と趣向を告げ必要に応じ調達していたらしい。
 しかし例によって、未婚女性は座に華を添えるとかそういう感じで、茶の湯の侘び寂び趣味の例外なのだろうか。隣家の高官令嬢は、たかだか身内の茶会に贅を尽くした振袖を着てきたのだった。

「あのお家のお父さまは、満州国政府のお役人なんですってね?」茶道の師匠は声をひそめながらも畳みかけた。
「お役人ってそんなに羽振りがいいものかしら。お隣がどんなふうな暮らしをしてらっしゃるか、何か面白いお話はご存知?」
 多栄は、さあどうでしょうとか何とか当たり障りない返事をしながら、いつもと同様に実家の商社が台湾で買いつけた紅茶を淹れ、茶の師匠にも臆せず「どうぞ」と差し出した。
 噂話に相手が乗ってこないせいか、師匠はようやく静かになった。

 数実は少年雑誌を手に寝転がっていて、広縁の軋るのが心配で立ち去れずにいた。加えて、大人の話を聞く背徳感に立ち去りがたいものを感じていた。
 折よく、別の部屋から広縁に出てきた従兄弟が気づいてくれた。
 音をさせないよう、透ける簀を張った夏障子の腰板より上に頭を出さぬよう注意しながら端から数実の足をそろそろ引っ張って、大人たちに気づかれずに脱出させた。
 従兄弟は「できたよ」と、調整した輪回しの輪を渡してくれた。そのあと、梅雨入り前の青葉が勢いづく季節の裏庭を、一緒にその玩具で走り回って遊んだ。
 南側の庭園は綺麗に手入れされていたので、屋敷の子どもたちは裏庭を遊び場にしていた。台所や風呂など水場は井戸のある北側にまとまっていて、家で雇われた女中たちが忙し気に行き交っていた。
 裏庭でも武蔵野の雑木林を模した広葉樹は数多く植えてあり、地面の凹凸など障害物も多かったが、棒で押すというより加減して叩けば輪を倒さずにわりと転がし続けることができた。
 だけど輪は、地面に対して1次元だからいつかは倒れる。

 その時代は戦時中だったため、隣組が権力の末端を担い、住民に贅沢を相互監視させたことはよく知られている。
 戦争に勝つためと称し、鍋や番犬といった家庭のなけなしの持ち物までわずかな対価や劣悪な代替品と引き換えに剥ぎ取った。それはただでさえ持たざる貧乏人のあいだで事実上強制されたのだが、現代より酷かった不均衡が増税などの戦時経済でさらに強化され、人口のほとんどは貧乏だった。
 そこへいくと、この高台のお屋敷街の隣組は金持ちたちと、金持ちの地所内に小遣い稼ぎに建てられた貸家の住人たちだけで構成されていたから、様子が違っていたと思われる。
 資金はあるため戦時国債購入割当の消化は容易だったし、茶会や高価な茶道具だろうと室内愛玩犬だろうと怪しい闇ご用聞きの跋扈だろうとお互いさまで、およそ贅沢に目くじらが立てられるわけはなかったのだろう。
 数実の屋敷の北隣に住んでいた高官は、噂好きな茶道の師匠の見立て通り、実際に羽振りがよかったようだ。
 中野の家を小さいと言って嫌がった令嬢は、後年、「新聞記者ってあれでしょ、頭の上のハエみたいにお父さまにブンブンくっついてくる連中よね」と言いながらも父親が決めた政治家の血統の記者と結婚して、しまいには一族の女帝と異称されるようになったあとにも、ささやかな住まいだったと回顧したという話だ。
 しかし、糖山家と同様に震災のすぐあとで東京市内から中野に避難した貸家とはいえ、高官の家だって333坪(1、102平米)あった。ほとんどの貧乏人からみれば立派な住宅だったはずだ。
 高官の一家はそこを1941年のうちに引き払い、中野よりは都会に近い淀橋区K木の屋敷に転居した。

注: 淀橋区=現在の新宿区西部

 それが二千坪あって「万里の長城」と揶揄されたほどの大邸宅だった。どうやら高官は中野に住所を置いていた間に、植民地支配の業を積んだのみならず、財をしこたま蓄えたらしい。
 K木の長城に茶室があったかどうかはわからない。戦争末期に米軍の都市爆撃で全焼した。
 しかし家屋が焼かれ官職を喪失したのちもなお、元高官は戦後、渋谷区N台に洋風の豪邸を構える余力があった。
 驚いたことには2022年にもなって、このN台の豪邸と元高官の家族の1950年代に撮られた映像が、戦前の亡霊のような教義をもつ教団の事件に関連してテレビのニュースで繰り返し放送された。

 戦中まで隣家に住んでいた高級官僚というのは、戦後に巣鴨に収監されたあと釈放され、1950年代に首相まで上りつめ妖怪と呼ばれたその人だ。
 高官の中野の家に学生のころ下宿していた弟も、兄のあと1960年代に首相になった。
 そのとき数実の祖父の三四二は「地所内に住んだことのある青年法学士が総理大臣に」と、無邪気に喜んだという。祖父が1965年に満92歳で死んだあと、その逸話を親しかった人による追悼文で読んだ。
 なお、数実の従兄弟で子どものころ屋敷の母屋に住んでいた三四二の孫は、大学進学後に全学連の委員長になった。60年安保のときは、デモの大群衆とともに国会や、当時首相だった妖怪のN台の豪邸を取り囲んだ。
 三四二の死後、本人の回顧録や祖父をよく知る人による追悼文が出版された。それらが単にむかし近所に住んでいたり、あるいはその程度の接点すらなかった著名人には言及するのに、小さいころ可愛がっていた孫の学生運動について、黙殺するかのように全く触れないことに数実は釈然としない思いがした。
 祖父も母の多栄も長生きしたが既に亡い。活動家だった従兄弟も先年世を去った。
 もしも2022年まで生きていたら、高官の一族が現代まで営々と培ってきた権力の因縁めいた顛末に、いったいどんな感情を抱いただろうか。

 中野の屋敷の青葉が茂る庭で、従兄弟が輪回しで遊んでくれた。若いころに旧居の祖父とは袂を分かち疎遠になってしまった数学者の数実は、この児戯を懐かしく思い出していた。
 数学では、円は1次元球面といっても同じだ。1次元球面を3次元空間内の2次元平面上で転がして遊ぶ普通の輪回しを1次元輪回しと呼ぶことにすると、4次元空間内の2次元輪回しというのが考えられる。
 どうにかしてこれを遊ぶことはできないのだろうか?

 糖山邸は、高官が転居した先のK木の邸宅と違い、戦争末期の米軍の爆撃で焼けなかった。戦後、三四二の知己の事業家に屋敷の母屋を貸し、料亭になった。
 料亭に変わっても茶道には縁があった。宴席の客も玄関を入ればまず薄茶が振舞われた。庭園の茶室は2棟に増築された。地元茶道会が重宝して使い、わりと規模の大きい茶会も開かれたようだ。
 立地がかつての二業地でも三業地でもなく高級住宅地だったため、料亭とはいえ昼間の営業にもそれなりに重きを置いたふしがある。料亭が茶の湯用としてただの井戸水を武蔵野の乳泉と称して売っていたくらいは、まあ愛嬌だったかもしれない。

注: 二業は芸者屋と料理屋、待合を加えると三業。営業が許可された地域は花街と呼ばれ昭和10年代頃まで繁栄した。料亭は芸妓が呼ばれ客を接待するため1948年公布の風俗営業取締法による規制対象となった

 その土地は元の建物が壊されたあと1980年代に中野区の公共施設が建ち、往年の面影はなくなった。
 現在は産業振興センターとなった施設の敷地内には、料亭時代の茶庭のつくばいと呼ばれる手水鉢だったと思われる石が2つ、半ば落葉に埋もれながらも残っている。

(終)


解題

 中野駅南東の中野区産業振興センター(東京都中野区中野2)がある場所は以前、料亭「普茶料理ほととぎす」だったが、戦後までは元芸備銀行頭取、塩川三四郎(1873—1965)の邸宅で、当時敷地東側に住んでいた旧中野村名主堀江家最後の当主、堀江恭一(1889—1962)の地所だった。
 同じ堀江の地所内に役人時代の岸信介(のちに首相)が住んでいた(参考資料1によると1941年まで)。娘の洋子(安倍晋三元首相の母)はその中野の家で生まれた。また岸の弟の佐藤栄作が寄宿して大学に通っていた。参考資料2によると、晩年の三四郎は昔地所内に住んでいた佐藤が首相になったのを喜んだということで、本作『二千坪』はそのあたりの事情を念頭に書いた。

 小説は三四郎を参考に創作した銀行家、糖山三四二を主要な登場人物としている。なお『二千坪』には堀江を参考にした人物は登場していない。
 三四郎の孫、元全学連委員長の塩川喜信トロツキー研究所長(1935—2016)は、父親が早世し祖父の屋敷で育った。後に60年安保で糾弾することになる岸が、喜信が子どものころ隣人だったわけで、味わい深い。
 小説の主人公、糖山数実は喜信の誕生日と続柄を借用しているが、存命の数学者という設定だ。このため本作は数実の従兄弟を元全学連委員長としている。

 中野区産業振興センターの土地の歴史などについて私たちが調査したことは、以下のブログにまとめてある。

 また、以下の冊子にもこの場所についての考察を一部記している。

 堀江家土地屋敷の変遷がわかる動画。

参考資料

1 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』実業之日本社、2017年
2 斎藤虎五郎『金融史談速記録』日本銀行、1966年

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