自分は可哀想、と思ったとき、『可哀想な私』の扉が開きはじめる。
自分のことを可哀想だな、
と思う出来事に遭遇することはあるものなのかもしれません✨
そのとき、どう思うかで、
その先の人生の道のりは変わってしまうように感じます。
『自分は可哀想、
だと思ったとき、
可哀想な人になる。』
(可哀想な私、の道のりに足を踏み入れてしまう)
それまでは、可哀想な人とは思わなかったのだから。
可哀想な人と思う方が楽かもしれない、
すくわれるかもしれない、
解放されるかもしれない、
そんな扉が開きそうになっただけなのだ。
可哀想な私、
と思いたくなったら、
その思いを整理しよう。
◉整理するには順番がある
整理する順番は↓こちらの記事にまとめています。
可哀想な人はいない、
と決めると、
その扉は開かない。
強くあろう。
その分、
弱くなったように感じるだろう。
弱く感じるのは、柔軟性が増しただけ、
かもしれないのです。
可哀想かもしれない。
でも、
可哀想ではなく、幸せかもしれない。
可哀想な私ばかりに視点が増えると、
可哀想な私ができあがる。
可哀想なこともある、
だけど、
可哀想ではなく、幸せかもしれない、
と視点を増やせられると、
私は、幸せなこともある、
と思考は無意識に幸せなことを探しはじめる。
可哀想な私の扉が開きそうになっても、
その扉を開ける手を止められる。
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