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シン・エヴァンゲリオン:||劇場版

英雄の物語は、父親の世界を知ったあとに、父殺し、それから帰還という流れになる。本作でもその部分が描かれる。なお、「千の顔を持つ英雄」では英雄の冒険は、円環を描いているとされており、タイトルにつけられた「:||」は、その円環を意味していると思われる。
冒頭、ヴィレとネルフの戦いが描かれる。舞台はパリであり、街全体が赤く染まっている。海の色と同じだ。つまりは死滅していることを示しているのだろう。ただ、後半、ゲンドウの言葉によると、死滅ではなく「浄化」ということになる。
なぜパリなのかはわからない。ネルフの生み出した軍隊は、「シトもどき」と呼ばれる。破壊されると、シトと同じように十字の閃光が走る。Qの冒頭での、ネルフとの戦いでは、十字ではなく、十字が傾いた閃光になっていたので、Qの時にヴィレが戦っていたのはシトもどきではないのではないか。ということは、ネルフは進化してシトを作れるようになったということか。今まではシトが第三新東京市を襲ってきていたのだが、ゼーレが消滅して、シトはやってこない。しかし、〇〇インパクトを起こすためにはシトが必要だ。そのために、シトを作っているのだろうか。
戦闘に参加しているのはマリで、ネルフの軍隊を撃破し、パリがふたたび生気を取り戻す。
場面がかわって、シンジとアスカ、アヤナミが第三村にいきつく。村には外敵から守るための防御柱が設置されている。ヴィレが作ったものだという。アスカは村には入れない。これは後半で明らかになるが、アスカがシトだからだ。
先に書いてしまうと、アスカはシトであって、左目に小型の防御柱のようなものをいれて、その力を抑えている。だから眼帯をしている。つまり、破で、エヴァをシトに乗っ取られたとき、アスカ自身もシトに乗っ取られていたのだ。
そして、彼女がシトであることが、アナザーインパクトのトリガーとなる。フォースインパクトで世界を救いにいったカヲルが、トリガーにされたのと同じパターンだ。しかし、単純な繰り返しではない。それについては後で書く。
村での平穏な生活は、農作業をしたり、壊れた部品を修理するような、平穏なものだった。しかし、エヴァパイロットにとっては、終の棲家になるような場所でない。
シンジはQでの衝撃から立ち直れず、ずっとふさぎ込んでいる。アヤナミは畑仕事を手伝うなどして、農村の人々にかわいがられるが、自分はネルフでしか生きられないことは知っている。
彼を取り巻く状況はあまりにもヘビーだ。
サードインパクトを起こしかけて、世界をめちゃくちゃにした。しかも、助けたはずの綾波はいなくて、結局誰も助けていなかった。さらに、フォースインパクトをも起こしかけてしまった。その際に親友のカヲルを失った。さらに悪いことに、カヲルが死んだのは、シンジがつけていたチョーカーを引き受けていたからだ。要するに、シンジがカヲルを殺したようなものなのだ。なお、カヲルの原型はユイではないかと思っていたが、本作を観ていると、もしかするとゲンドウが原型なのではないかと思わされる節がある。
気になるのは、シンジからチョーカーを引き受けたとき、カヲルは「これはそもそもボクがすべきものだ」と言っていたことだ。シンジがチョーカーをつけられたのは、彼がフォースインパクトを起こしかねないからだ。セカンドインパクトを起こしたカヲルが、フォースインパクトのトリガーになる可能性は非常に高かった。そういう意味ではカヲルがチョーカーをつける必然性はあるだろう。しかし、彼は世界を救うつもりでエヴァに乗った。ゲンドウの策略にはまったことを悟るのはそのあとだ。そうすると、別の可能性を考える必要がある。カヲルがゲンドウのコピーであるならば、人類補完計画を実行するために、フォースインパクトをもくろんでいるわけだから、チョーカーをつける必然性が出てくる。
物語に戻ると、シンジが立ち直る。そして、アヤナミのタイムリミットが訪れ、彼女は死ぬ。
シンジはアスカとともにヴィレに戻る。
ヴィレとネルフの最後の戦いはセカンドインパクトが起こった場所で繰り広げられる。
なお、本作ではカジさんが、サードインパクトを止めるために犠牲になった、という話が語られる。カヲルが槍で初号機を貫いたからサードインパクトが止まったのではなかったのか。カジがどうやってサードインパクトを止めたのかは語られない。
最後の戦いのメインになるは13号機を破壊することだ。シンジは13歳、カヲルは13番目のシト。そして、12使途の次の数が13。この13という数字は、エヴァにおいて、重要な数字のようだ。
戦いの途中でゲンドウがヴィレの戦艦に現れる。彼は銃で撃たれるが、形態が破損するだけで死なない。これは、ゲンドウ自身がすでにクローン化しているということだろうか。
観ていて思い出すのは、埴谷雄高の「死霊」だ。日本初の形而上学小説と呼ばれる傑作長編において、延々と語られていたのは「人間は肉体はいらない、魂だけの存在になるのだ」ということだ。その魂だけの存在を小説内では「虚体」と呼んでいた。延々と続く物語の中で、ただそのことしか語られていなかったのは、見事だった。
エヴァが「死霊」を意識していたとすれば、ゲンドウは虚体になっていたのではないか。
人類補完計画は「虚体」かといえば、魂を固体化して、融合するというプロセスのようだから、虚体ではない。このあたりの事情があるので、小生はエヴァと「死霊」とのつながりをあまり強く主張できない。
まず13号機を破壊しに向かったのはアスカだった。彼女が13号機に槍をつきたてようとすると、ATフィールドが発生する。アスカが搭乗している新2号機が発生させているのだ。そこで、アスカは左目から防御柱を引き抜き、シトの力を発生させる。この発想はデビルマンと同じだ。コックピットにいるアスカに、笑い声が近づいてくる。これは破の時と同じ状況だ。しかし、姿を見せたのはアスカの原型だった。アスカは最初からクローンだったのだろうか。もしくは破で一度死んで、クローンとしてよみがえったのか。父も母も知らないというところを考えると、前者なのかもしれないが、今までそういう情報がなかったので判断できない。
そしてアスカが死ぬ。
次に、シンジが初号機に乗って13号機を破壊しにいく。13号機に乗っていたのはゲンドウだった。
アスカが戦っていたときは、アスカの原型が乗っていたようだが、シンジが乗っていたときはゲンドウが乗っている。これは13号機という存在が、相手によって姿を変える要素があるということだろうか。つまり、おかしな言い方になるが、13号機の実体はなくて、セカンドインパクトの爆心地という異空間によっておこる内なる戦いが、実体化したものなのだろうか。
ゲンドウとシンジは戦うが、攻撃によって勝敗がつかないことを悟る。そして、会話がはじまる。電車の中で。あの電車は、シンジの心象風景なのだろうか。
ふたりが話している間に、ヴィレの戦艦が槍を届ける。それによって、ゲンドウは自らが敗北したことを悟る。
そのあと、マリと冬月が会う。冬月はマリを「イスカリオテのマリア」と呼び、死の直前に「ユイくん、これでよかったかね」という。今までゲンドウの分身だった冬月が、ここではじめて自らの意思を見せる。つまり、ユイやゲンドウと同級生だったマリは、彼らが夢見る人類補完計画を阻止する役割を担うところから、「イスカリオテ」と呼んだのだろう。そして、マリの援助をするということは、冬月もまたゲンドウを裏切ったということになる。彼は自らの命を賭して、人類補完計画を止めようとしたのだ。「ユイくん、これでよかったかね」というセリフは、冬月が考えるユイは、人類補完計画を望まないだろうという思いの表れなのではないか。
登場人物たちが次々と自分の立場を説明しながら退場していく。カヲルとカジさんのやりとりも興味深い。カジさんはカヲルを「渚指令」と呼ぶ。その時のカヲルはゲンドウの席に座っている。つまり、カヲルとゲンドウは同一人物なのだろう。そして、カヲルがゲンドウを「お父さん」と呼んでいたことを考えると、原型がゲンドウで、カヲルはクローンなのだろう。カヲルがシンジに無償の愛を注いだのは、カヲルにとって、シンジは息子のようなものだからだ。
やがて戦いはおわり、マリがシンジを迎えにくる。ふたりは田舎の駅にいる。駅のホームには、カヲルやアスカといった人々の姿がある。ただ、みんな他人で、普通の人間になっている。
マリはシンジの首からチョーカーを外す。簡単に外したのは、世界が違うからだろうか。
ふたりは駅から出る。そこは実写になっていて、人物だけがアニメになっている。カメラが空撮になって町の風景が映し出される。不思議なのは、そこには人物が歩いていないことだ。車は走っているのだが、人間がいない。駅周辺にいた人々はアニメだったが、カメラが回転したあとの世界がどうなっているかはわからない。
この、実写の世界に移行するということは、英雄の、すなわちシンジの人生が円環のあらたなターンに入ったことを示している。
こうして一気に観ていると、いろいろなことがつながっていく。槍の名前については、調べなくてはわからないが、今回は基本的に自分の知識や想像だけでレビューしてみた。
人は他者とのコミュニケーションがあるから人なのであって、ひとりでは生きていかれない。コミュニケーションには苦痛がつきものであるが、それでも生きていかなくてはいけない。というのが、エヴァの中核をなすテーマであったと思う。
今作の最後で実写を入れたというのは(旧作でも実写は入っていたが)、アニメ、つまり虚構の世界から現実への移行を表現しているのだろうか。虚構にとじこもっているのではなく、現実を生きろ、と。そうだとすると、あまりにも正論すぎるかと思う。単なる演出上、実写をいれたのだと思いたい。
なお、エヴァを観ていると、ちょくちょく「シリアルエクスペリエンス・レイン」を思い出した。人間の心の闇を描いた傑作で、あの作品にながれていた虚無感が、エヴァからも感じられた。エヴァは最後に救いを持ってきたが、レインはどうだったかな。
すぐれたイマジネーションに触れると、人生が豊かになった気がする。小生の場合は、圧倒的なオリジナリティに触れたい。そういう意味で、大友克洋の「AKIRA」であるとか、デヴィッド・リンチであるとか、埴谷雄高「死霊」などなどたくさんあるが、そういうものは小生の人生を豊かにしてくれたと感じている。
庵野秀明については「エヴァ」のクリエイティブは素晴らしかった。これで完結したから、また新たなオリジナル作品を生み出してくれることを期待している。

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