ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序
最初のほうを観ていると、さすがに演出的に古さを感じたが、全体を通じて、過去に観たときよりも面白かった。
感想というほどまとまっていないけれど、思ったことを書いてみるとこんな感じ。
ジョーゼフ・キャンベルの「千の顔をもつ英雄」によると、「英雄の旅」は、1.英雄が日常生活を離れ冒険の境界へと向かう。2.境界を守っている影の存在に出会う3.英雄はその力を打ち負かすかなだめるかして、生きたまま闇の王国に入るか、敵に殺されて死の世界におりていく。境界を越えると英雄はなじみがないのに不思議と親しみを覚える力の支配する世界を旅することになる。そこには試練や助力者の存在がある。4.英雄は究極の試練を経験して見返りを手に入れる。その勝利は英雄と世界の母なる女神との性的結合や父なる創造主からの承認、あるいは英雄自身が聖なる存在になる。という形で描かれる。最後は帰還に取り組むことになる。
ざっくり抜書きするとこんな感じ。わかりやすいところでは「スター・ウォーズ」「ロード・オブ・ザ・リング」がこのプロットを取り入れている。というか、多くの物語がこの構造になっている。
本作は、3.に入ったあたりまでが描かれる。
当時は現代版の1stガンダムだと思っていたんだけど、永井豪によると、「エヴァはデビルマンですから」と庵野秀明本人に言われたらしい。エヴァンゲリオンそのものがデビルマンなのか、碇シンジがデビルマンなのかは不明。
それをふまえると、最初のエヴァの暴走はまさにデビルマンの姿であり、エヴァが碇ユイだとすると、胎内にいる息子であるシンジが傷ついたことによって母の怒りが炸裂したという構図が読み取れる。そういう意味ではひとつの家族が結集して敵と戦うという物語でもある。デビルマンが、不動明が自ら悪魔と一体化することによって、デビルマンに変身するということを考えると、エヴァの胎内に取り込まれたシンジが悪魔の役割なのだろうか。そうすると、悪魔が世界を救うという点で、デビルマンの発想をかなり忠実に取り入れているということになる。デビルマンとつなげて考えると、渚カヲルは見た目からして飛鳥了そのまんまである。
物語の途中で、事故にあった綾波をゲンドウが助けるシーンがあって、最後のほうでシンジがまったく同じ行動をする。これは父と子の同一化を表現しているのだろうか。ゲンドウは綾波に接するとき、亡き妻に対して接する気持ちなのだろうか。そうだとしたら、シンジが綾波を助けたときの感情は、母に対するものではないから、同じ行動をしているが、本質的には違うことをしているということになる。このあたりは物語が進むにつれて解明されていくのではないだろうか。
いまのところ不明なことは、下記の点。
・シトとはなにか
・ネルフの上位機関であるらしきゼーレとはなにか
・ネルフはいつからあるのか
・第一~第三のシトは綾波が倒したのか
・リリスは第二のシトだとすると、第一、第三のシトはどうしたのか。なぜリリスは殺さずに確保してあるのか
・ゲンドウと冬月の会話に出てくる「人間は知恵の実を食べて、シトは生命の実を食べた」とはなにか。そもそも、なんでそんなこと知っているのか。
・最後に「また三番目とはね、変わらないねきみは」という渚カヲルのセリフはなんだろうか。
・第三新東京市はなぜ地上に現れたのか。第四のシトと戦っているときに地底に潜っていて、シトを倒したから地上に出てきたのか。だとすると、シトと戦っている時にあった町はなんの町か。
・そもそも庵野秀明はどうして「デビルマン」を「エヴァ」として描いたのか。エヴァを作った意味というか、意図はなんだったのだろう。