第6回 金子家に招かれて
数日後の夕方に金子家を訪れた。
いつものように執事が出迎えた。
母屋に案内されると、玄関扉の前で蝶が待っていた。白いブラウスにタータンチェック柄の短いスカート姿だった。学校から帰ってきたばかりだという。「お待ちしていました」と丁寧に挨拶をした。洋介もやや緊張してお辞儀をした。蝶は洋介の腕に軽く触れた。
「少し庭を散歩しましょう」
執事はついてこなかった。蝶は時折足を止めて植物の説明をした。たとえば洋介の腰の高さほどもあるアガベ。兵庫県の専門業者のところまで買いにいったという。平べったくて肉厚な乳白色の葉は、粉を吹いたようになっていて、触れるとざらざらしていた。葉の縁に並んでいる棘に触れて、ちくちくする感触を楽しんだ。
樹齢二百年のオリーブというのもあった。二メートルほどの高さで、幹に洞ができていた。ネットで検索すればこの程度のものはヒットするという。ただし、かなり高価だから、個人で購入するというよりはショップなどが話題作りのために購入するのだろう、と蝶は説明した。不思議なことに、「自分は個人で購入したんだ」と自慢しているようには聞こえなかった。
敷地内には雑木林があった。歩いていくと、道端に鉢植えの黒い塊が置かれていた。リュウビンタイというシダ植物だという。甲羅のような塊からツタが伸びている。本当は露地植えにしたいのだがまだ決心がつかないの、と蝶は言った。
「お婆さまはバラとかチューリップみたいなオーソドックスな植物が好きなんだけどね。私はこういうのが好きで。温室にサボテンとか多肉植物がたくさんあったでしょう。あれも私が集めているの」
母屋の裏手にはバラ園があった。鉄の柵に囲まれていて、腰の高さくらいの鉄の門がついているんだ。かなり古くなっていて、引くと「きぃ」と黒板を爪で引っ掻いたような音がした。背の高い植木の間を小道が通っていた。蝶はバラについてはあまり詳しくなかった。それでも好きな色や花の大きさの好みなど、楽しげに喋り続けた。
ひとしきり園内を回ると、蝶が聞いた。
「お婆さまにどういうお仕事を頼まれているの?」
「守秘義務があるので」
蝶はバラの茎を撫でながら言った。
「そればかりね」
「同じ質問ばかりするからですよ」
「じゃあ質問を変えるわ。セックスをすると自分が生きているのを実感する?」
「そこまで大げさな感動はないですね」
「ただのスポーツ?」
「他人の温もりを感じて幸福感を覚える、というのはあります」
「世の中の男性がみんなそういう風に考えていたらいいわね。射精するためにセックスするだけっていう男も多いでしょう」
「どうでしょうね。僕はそういう統計は見たことがない」
「私もないけれど、そんな気がするって話。セックスをしても幸せではないと思う。それよりも、あなたにさいごの風景を作ってもらって、それを自分の帰る場所にしたいのよ。それが一番の幸福なんじゃないかと思うの」
洋介はため息をついた。
「あの封筒はそういうことだったんですね」
「中身を見たのね」
「招待状と百二十万円入っていました」
「あれだけあれば足りると思うけど」
「まだ仕事を受けるとは言っていません。それに、あれは普段受け取っているお金の倍以上あるから、どちらにしろ受け取れない」
「だったら必要な分だけ受け取ってよ」
「全部返すべきか、考えているんです」
「普通に客が仕事を頼んでいるだけだと思ってよ」
「僕は自己責任で仕事を選ぶんです」
「断ったらまたあなたを尾行するわ」
蝶は洋介の目を覗きこんだ。切れ長の目には濁りがなくて力があった。洋介は目を逸らさないように意識を集中しなくてはならなかった。
やがて蝶は洋介に背中を向けた。バラの茎を軽く撫でた。
「お婆さまに教えてもらったの」
「そうでしょうね」
「あなたに仕事を依頼するつもりだと言ってあります」
「仕事を受けるかどうかの判断基準にはならない」
「今すぐ決めろとは言わないわ。私があなたを訴える前に決めてくれればいい。前金で百二十万円をお支払いしたのに返却もしなければ、仕事もしてくれない、と訴えたら勝てるでしょう。法的な力がなくても、社会的には制裁を受けるはずです」
「なるほど、確かにやっかいなことになった」
「確かにって?」
「ひとりごとです」
門扉がきぃと耳障りな音を立てた。洋介はパンツのチャックを確認した。蝶は洋介の姿を一瞥して、問題なし、という風にうなずいた。背の高い椿の向こう側から執事が姿を現した。
「こちらにいらっしゃいました」
背後に向かってそう言うと、執事の後ろから四十代くらいの女性が姿を見せた。色白で目が細かった。洋介には目もくれず、蝶に「なにをしていたの」と聞いた。蝶はバラに触れた。
「高橋さんにバラ園をお見せしていたの」
それでも女は洋介を見なかった。
「母親です」
蝶が紹介した。洋介が挨拶をすると一瞬ちらっと見て軽く会釈をしたがすぐに目を逸らした。蝶は笑いをこらえるような顔をして黙っていた。やがて母親が言った。
「洋服を汚してはいけないわ」
「大丈夫」
蝶が答えると母親は安心したようだった。手を伸ばして蝶のブラウスの襟元を正した。蝶が微笑むと、母親は戻っていった。執事も軽く会釈をして後に続いた。
やがて門がきぃと音を立てて閉まると、蝶は「ふぅ」とため息をついた。スカートの裾を軽く直すと洋介に向き直った。作り笑顔が消えていた。
「ここではないどこかに期待する気持ちがわかってもらえるかしら」
洋介は首を横に振った。
「僕の仕事は『ここではないどこか』を作ることではなく『過去にあったどこか』を魅力的に見せることです」
蝶はバラを撫でた。空を見上げてしばらく考えた。風が吹いた。スカートの裾を軽く押さえた。
「現実の風景があればいいんでしょう」
「作業としては可能です。そういう仕事をしたことはありませんが」
「ニーズはあると思うの」
「そういう仕事を受けると、さほど思い入れのない風景を補強するような、あまり意味のないことになりかねないので。旅先で撮ったスナップ写真をリアルに感じるためとか。3D映像の次の媒体みたいな扱いになってしまう」
蝶は目を輝かせた。
「いいアイデアだと思うけどな。どんどん風景を作ってお金儲けをしたらいいじゃないの」
「納得のいかない仕事は受けません」
「ある程度の収入があると、言うことに余裕があるのね」
蝶は洋介の手に軽く触れた。
「いきましょう」
ふたりは小道を戻っていった。蝶が言った。
「私は本気でお願いしているのよ」
「だから僕も本気で考えているんです」
小さな門を抜けた。母屋の脇を抜けていくと、玄関の近くで執事が待っていた。蝶が足を止めた。洋介の手を強く握った。
「よく考えてね」
洋介はうなずいた。蝶はお辞儀をして一歩下がった。執事が「出口までご案内いたします」と言った。
歩いている途中、執事は鼻をくんくんさせて首をかしげた。
「私が口出しをすることではないかもしれませんが、奥様は蝶様の交友関係を気にされています」
「僕はお眼鏡には適わないでしょうけど、友だちではないので心配ないです」
「そうだといいんですが……」
執事は首を横に振った。
――失礼な人だなぁ……。
そう考えながら、洋介は母屋のほうを振り返った。人影はなかったけど、誰かに見られている気配があったんだ。やがて勝手口についた。洋介は表に出た。
「明日納品に伺います」
執事はなにか言いたげだった。洋介はあたりを見回して人がいないことを確認した。そして小声で言った。
「まだ止められますよ」
執事は苦笑いを浮かべた。
「止めてほしいんですか?」
洋介は首を横に振った。
「僕は依頼人との契約を果たします。金子さんは戻る場所を手に入れます」
執事は小声で言った。
「そうかもしれません。あの件は、忘れていただければと思います」
「今度からは、普通に遊びにきてくれれば歓迎しますよ」
「機会があれば」
表情が硬かった。洋介は肩をすくめた。
「あなたはここから一歩も出ない、という感じですね」
「まさか。外出はします」
「それでも、あなたがさいごの風景を作るとしたら、この敷地内の出来事になりそうだ」
執事は違いますと言った。
「私はずっとここにいます。記憶の中の風景ではなく、ここがすべて、ここの今がすべてです」
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