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冒険譚のラストシーンにて -3-



陽を受けて鱗を鳴らすわたしのそばで、男がごろりと横になっている。男のそばでは、幼いファリアが寝息を立てている。二人の顔に影を作るように片翼を広げて、わたしはその寝顔をじっと見てから首を伸ばす。
樹々は大気に満ちる神聖を喜んで歌っている。草は波のように光る。空気は薄黄色の絹のように揺れる。胸の内が、冷たくて暖かい。
ここに、なにもかもがあった。このまま消えてしまいたいとさえ思った。


___長い長いうたた寝の後。諦め悪くいつまでも瞼を閉じていたが、すっかり優しい白昼夢は過ぎて行ってしまった。仕方なく瞼を開ける。夢と同じ景色が目に飛び込んできて、一瞬現実と夢の境目で迷子になる。首を軋ませながら地面を見下ろすと、そこに男とファリアだけがいなかった。

薄情なことに、わたしの白昼夢にはすっかり竜の仲間たちは出てこなくなった。代わりに男やファリア、時には顔も知らぬファリアの母も一緒に、昼寝をしているという内容に変わった。なんとも間抜けで取るに足りない夢。そして、得難くいつまでも諦めきれない、わたしと男の夢でもあった。

ファリアがここにたった一度やって来てから、もう8回目になる夏が巡ってきた。
20年近く前には失われていた自然界のエネルギーが、特に夏には沸き立つように次々産まれては輝く。煌々と燃える太陽と、それが作る樹々の影は黒々として、鳴り止まない虫の声が木陰のなかに響き渡る。
わたしがここで呼吸しているだけで絶えず風が起こるので、けしてここは暑くない。街も時折涼しくなればと、加減しながら遠吠えする日もあった。逆に冬などはわたしの息が颪となって街の者が凍えないよう、なるだけ浅い呼吸をしながら眠るのだ。

このままわたしは、街で暮らすあの家族のことをを想いながら、霞のような夢と思い出を糧に残りの永い命の終わりを待つのだろう。
それでいいと思った。
植物だったころには知りもしなかったほどに心は重たくて、地に伏してしまいたくなるような日だってあった。陽と風と雨さえあれば永久に生きていられる躯であったが、感情とともに死んでしまいたいと思う日さえあった。以前は「居眠りほどの間に何十年も過ぎてゆく」とそう思っていたのに、今は時間の果てしなさをちゃんと痛感している。
苦しくて、哀しくて、淋しくて。でも何も無かった心の中は満ち足りていた。だからそれでいいと思った。




夏の終わりには、山は1年で一番賑やかになる。この山や街よりもはるか北方からの渡り鳥の、中継地となっているからだ。毎年やってくる顔なじみたちだったが、毎回『この山はどんどん居心地がよくなるね』と嬉しそうにさえずる。”山の麓の街の長が、自然を大切にしているからだ”と言うと、鳥たちはぴぃぴぃと羨ましがって、自分たちの故郷の有様や長の悪口を始める。わたしが褒められた訳ではないのに口元が綻んでしまう。


しかし、一羽が始めた話で、一気にその気分は掻き消えた。

『そういえば、ここのひとつ前に羽休めした地域の人間が、「あの場所で竜が滅びて久しい。本当にいなくなったようだし、竜殺しの英雄も老いた。そろそろ争いを仕掛けてもいいだろう」って話していたよ。』

『こんなに居心地のいい場所なのに、戦争が起きて荒れてしまったら嫌だなあ。』そういって顔を曇らす鳥よりもはるかに暗澹とした気持ちで、わたしは考えた。


鳥たちの進路でいうと、件の地域は男の領地とは山を挟みながら隣同士であるはずだった。そして、この山を取り囲む複数の領地の中でもっとも大きく、最も多くの兵力を有していた。
この山は、今は男の領地に含まれている。かつて無数に棲息していた竜たちのねぐらを、以前はだれも管理しようと欲しがったりはしなかった。そして男の「竜殺しの功績」を讃えて、「竜のいなくなった山」は男へと恩賜されたのだ。これまでは、「竜を倒した」などという絵空事を信じない者も中にはいたし、阿呆くらいしか竜の巣窟へ足を踏み入れる者はいなかった。だが「20年たっても復活しない。本当に滅ぼされたようだ」となれば、話が違ってくる。
男のものとなっているこの山には、わたしたちから見れば何の価値もない、でも人間たちが見れば喉から手が出るほど欲しがる天然の資源が、手つかずのままで眠っているのだから。それは山を男に恩賜した王ですら知り得ないことで、けれど山に隣接する地域の者なら、薄々気づいてしまうことだった。

心臓が凍り付いたような心地。知らず知らず鱗が逆立っていた。近くにいた小鳥たちがびっくりして騒ぐので、あわてて鱗を閉じる。
ああ、あの男や家族の平和を願っているだけでは、その平和は守れないのだ。どうしたものか。どうしたものか___。
わたしは久しぶりに、胎の内側に燃え盛る激情を感じていた。「男に殺されてから」かなしいまでに優しく穏やかに過ぎゆく日々の中で錆びかけていた、怒りや憎しみ、そして激しい後悔が頭をもたげる。



”今年は早めに次の場所へうつると良い。ゆっくりさせてやれなくて済まない____お前たちが来年も、ここで羽を休められるようにしておくよ”

最後の言葉を口にするときは、頭の中には男やファリアの笑顔が浮かんでいた。酷く短い人生のなかで、あの者たちの居場所が脅かされることなどあってはならなかった。ましてや、わたしが男に押し付けた「嘘」のせいで起こったことなのだから。
巨大な竜は滅んでなどいない。男は竜を殺してなどいない。わたしが永久に「最悪の怪物」として山に生き続けていれば、こんなことにはならなかった。
嘘から始まって争いが起きようとしている。それでも、男はわたしに着せられた英雄のマントを脱がぬだろう。背負った街の者たちを放り出したりしないだろう。そして___絶対にわたしを、責めたりしないのだろう。

頭の上を名残惜しげに旋回していた鳥たちが、遠い空に消えて見えなくなってから。わたしは吼えた。嵐が起きて周りの若い樹々が数本折れてしまっても止められなくて、夜になるまで胎のなかの激情を炉にして、吼え続けた。




△△△




夏の終わりから一度も眠らずに自分の内側と向き合い続けて、そうして秋が来た。今年の秋は実りも、彩りも、黄金色の輝きも、何もかもがこれまでで一番美しく、それは間違いなく男の成しえたことだった。

頭や心は、冴えわたっている。光る湖面のようにその下にいくつもの感情を隠しながら、わたしは取るべき選択肢をもうちゃんとわかっていた。

次の季節がくる前に、争いがやってくるだろう。これを男に知らせる術はなく、知らせたところで、逃れられない戦火に多くの犠牲が出るだろう。


男が護った街もひとも山も、何一つ、奪われることにわたしは我慢ならない。
植物以外の何者かに、なりたいと願ったのは初めてのことだった。わたしはかつて人間たちに着せられ嫌悪していた呼び名を____「最悪の怪物」を、踏襲しようとしていた。



火と鉄の匂いが山にまで届く。男と初めて出会ったときの、洗練されたそれらの匂いではない。命を冒涜する激しさの野蛮なそれ。山の斜面は険しい。数日前から山を迂回して、男の街へ敵軍は進行していた。そして今日街の関所へとたどり着いたのだ。
___本当は、その道中ですべてを嚙み砕いて、切裂いて、粉々にしてやりたかった。けれど、それでは男の街を永い間護ることは出来ない。「あの街に手を出してはならない」と、王国中に知らしめなければならなかった。

動物たちが木陰から、不安そうに見つめている。


”あの男が護ったこの山も、お前たちのねぐらも、なにひとつ奪わせないよ。この山は未来永劫、おまえたちのものだ”


翼を広げる。びしびしびし。ひび割れる氷河のような音を立てて、翼の鱗が逆立つ。大きく息を吸えば、束の間音が消えた後に、わたしを中心に暴風が巻き起こる。
陽と風と雨と。それらで生かされる竜の躰は大気のように軽く、自分が起こす風の上に飛び乗るのは造作もないことだった。


一度大きく翼をふるえば、尾の先まで宙のなかへ。わたしは生まれて初めて空に抱かれる。そこは太陽が稜線へと沈みきり、わたしを慰めるみたいに鮮やかな夕焼け色をしていた。逆立った鱗の全てに、赤と橙と紺の色彩が反射している。
この景色を美しいと感じられるこころをわたしにくれた者がいた。一緒に見られたらどんなに楽しいかと思い浮かべる者がいた。



見下ろせば、ファリアと過ごしたねぐらも、男と出会った山頂も、夕暮れに照らされながらしんとそこに在るのがよく見えた。わたしの山。わたしの全てが詰まった山。


破裂音のようなものが聞こえる。
ぐるりと首を捻ると、男の街の入り口で煙が上がっているのが見える。



かつて、わたしは植物だった。永らく意味をなさなかった大きく邪魔な翼や、他者を傷つけうる鱗や爪や牙を持って産まれたのは、今日この日のためであったのだろう。

さあ行こう。これがきっと、産まれてから数千年ずっと此処にいたわたしの、最初で最後の冒険になる。





▲▲▲





___大きな爆発音が聞こえたとき、何が起きたのかを思考する前に、頭に浮かんだのは父と母の顔だった。窓に飛びついて外を窺うと、夜の帷が落ちかけた薄闇のなか、遠くの関所のあたりが煌々と光っている。燃えているのだ。赤く雲まで照らすほどに。

隣の領地の人間が攻めてきたんだとすぐに思い至る。「竜の山」の資源的価値が付近の領地にも広まり出したらしく、ここ数年は私の父もずっと警戒していたのだ。


いくらか前の、父の言葉を思い出す。

「___資源ならくれてやりたいぐらいだ。でも、俺はあの山と優しい竜の穏やかな日々をずっと護りたいんだ。山を賭けていつか争うことになっても、俺は山を売ったりしない。それは、それは、愚かなことだろうか」

父は、私たちの前でだけはよく泣くひとだった。
街を大きくしたり貿易で儲けたいという野望はなく、さらには街の人たちのことを心から大事にしているのに。「山を渡せば済む」という有事の局面にもけっして山や竜を見捨てるつもりがないことに、父が一番苦しんでいた。

「…いいえ。大切なものを大切と言えて何が悪いのです。あなたが皆に広めた教えとあなたの優しさのおかげで、街の者は皆幸せに満たされて生きています。このままずっと守りましょう。あの山も、私たちの命の一部なのですから」

子どものように背中を丸めて泣く父の手を、母が小さな手で包んで言う。私の愛する父と母。優しすぎると、竜にも言わしめたこの街の長。



___私は走り出す。心臓が痛い。何もかもを失う予感が足首をつかんで、何度も何度も躓きながら外へ転がり出る。警報が鳴り響く街の中を、男たちは関所の方へ、女と子供たちは反対側へとかけていく。父が何度も指導して、覚えさせた動きだ。ちゃんとみんな有事に対応していて、ほっと息をついたら涙がせり上がってくる。
いや、まだだ。泣いてる暇はない。訓練通りなら、父は間違いなくあの燃え盛る関所の先頭にいるはずだった。あの場に行っても何もできないだろう、でも、悪い予感を振り切りたくて足を動かす。

大きな街の中を、避難する人々の流れに逆らいながら走っているとき。私はずっと、あの竜と過ごした雨の日のことを思い出していた。




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「どうして私に、あなたのお母さんの名前をつけてくれたの?」

10歳の無鉄砲だった私が、竜を訪ねた日のこと。あの日、竜の腹の下で護られながら聞いた、鱗で跳ねる雨の音。竜が話すたびに起こる優しい風。鱗の中で煌めく無数の虹。足元で揺れる水滴の瞬き。そして、私の本当の名を呼ぶ竜の言語。
すべてがそれまで母に読んでもらったどの絵本よりも美しくて、何もかもが奇跡のようだった。

”おまえの父に、生まれ変わらせてもらったからだ”
「? ”父さんは竜を殺したんだ”って街のみんなは言ってたわ。それは嘘なんだって、父さんから聞いたけど」

不思議だった。殺されたことにされたら、生まれ変わるなんて。

”わからなくていい。いつかおおきくなったら、きっと「何があってもなくならないもの」を知ることになる。それを手に入れたとき、いきものは生まれ変わるんだ”

「父さんがあなたに、何かをあげたの?そんなにいい物なの?」

ずるいわ!そう頬を膨らませた私に、竜は風を起こしながら笑った。

”ああ。この世で一番よいものだ。わたしはこれを護るためなら、死んだっていいんだ”
「!死んではだめよ!ずっとその宝物と生きていて!」

簡単に死なんて言葉が出てくるから、わたしは飛び上がって驚いたし、なにより想像したら悲しくなって泣いてしまう。竜が簡単に死んでしまうような気がしたからだ。

”もしわたしが死んだって、その宝物は失くならずにずっとわたしと一緒なんだ。永遠に。だから何も、怖くはないよ”



父がやって来た時、私と竜の前で泣いた父を見て。
「ああ、父さんにとってこの竜は、家族と同じように大切なんだ」とそう思った。のぞき込んだ竜の眼差しの優しさ。何か言いたげに少し開いては閉じる牙。雨の中でぼろぼろとただ涙を落とす父も、いつもとは違った。

あの日、竜が言う意味を幼い私は理解できなくて、死んでしまうんじゃないかと言う私の恐れを否定してくれなかったことが哀しかった。帰り道「竜は死んでしまうのか」と泣きながら聞いた私に、「いや。山を護れば、あの竜は何千年でも生きるんだ」と父は答えた。安心して涙がひっこんだ私と対照的に、寂しそうだった父の顔。どうしてなのか、それさえ私にはわからなかったのだ。

今の私にはわかる。夏に時折山からふきおろす人間を労わるような涼しい風を受けた父は、必ず山を見上げた。その眼差しを見ていれば、痛いほどにわかってしまった。
命の長さ。そんな抗いようのない摂理の隙間で、あのふたりは代えがたい存在になってしまったのだ。
父を見守り続けてもあっという間に老いて死ぬ。竜が永久に孤独になると分かっていながら先に死んでゆく。それは、あのふたりにとってどれほどの苦痛であるだろう。
でもそれを承知で、”何があってもなくならない、世界で一番よいものだ”と、竜は言ったのだ。

___永遠。きっとそういう言葉で表されるもの。幼い私が竜と過ごしたあの日も、同じ類のものだった気がしている。
だって18歳になったいまも、何一つ色褪せずに私の心を満たしている。私を形作っている。

灼けた空気が頬を滑って、思考が現実へ戻る。燃え盛る関所がずいぶん近くまで迫った。
父さん。生きていて。絶対に生きていて。私や母さんや街の人だけじゃない。
あの竜を悲しませないで。




▲▲▲




「ファリア!避難しなさい!!」


いつもとは全く違う恐ろしい声で叫ぶ父の声を受けながら、その腕に飛びつく。ああ生きていた。安堵したら腕と足が震え出す。溜息をついた後父は背をさすってくれたが、咎められても仕方ない。どう考えても私はお荷物だったし、燃えてもうほぼ崩れ落ちた関所の奥に見える敵軍は、数えきれない数だった。でも父は私にそれ以上何も言わず、敵を睨んでいる。好転しようのない状況だと悟っているに違いなかった。

山の資源をめぐって諍いが起こるだろうことは目に見えていたが、まさか一切の友好的手段をすっ飛ばして攻めてくるとは。もう、私たちとの関係悪化を何一つ危惧していないということだ。___街ごと何もかも、奪い取るつもりで。

ぞっとする。戦うことになる男たちは、隠れている女子供や老人たちは、奪うことに躊躇いのない獣たちと相対した時、一体どうなってしまうだろう?何もかも壊されて失うのかもしれない。そんな。
思わず父を仰ぎ見る。こころの決まりきった顔をしているから、私はさらにぞっとする。優しい優しい父がとる選択肢なんて、ひとつしかなかった。

「だめよ父さん!!いやだやめて!」
「ファリア。お前は避難所の母さんのところまで行って、大丈夫だからと皆に伝えてきなさい。早く安心させてやってくれ」

それは父の本心で、そしてこれから起きることを私に見せないための手段でもあった。絶対に絶対に離すまいときつくしがみ付いていたつもりだったのに、父の武骨な指が、この戦火に照らされながらあまりに優しく動くから。呆然と、私の指が父の腕から解かれていくのを見ていた。




「俺の首を渡すから、誰一人も傷つけるな。山の資源もくれてやる。だが、この街の住民とその信仰を守ると約束しろ」

燃え墜ちた関所を踏みつけながら、数人の兵士を引き連れて敵将らしき男が進んできて、父はそいつにそう告げた。
街と人を守りたい。そして山を守りたい父には、父一人が死ぬ方法しか無かった。そしてそれを躊躇いなく選ぶ人だった。
いやだ!!!と叫ぶ私を、泣きながら街の兵士たちが止める。何千人の軍隊を前に戦わずして戦争が終わろうとしていたから。私のたったひとりの父の命を引き換えにして。

手を伸ばす。指の隙間から、父と二言三言喋った後近くの兵士を呼び寄せる敵将と、その場にゆっくりと座る父の姿が見えた。いま見えているものをつかもうとして腕をばたつかせても、水のなかのように滲んでぼやけて、何もかもが涙のなかに消えていってしまう。
ああ、消えないで。なくならないで。





_____ばりばりばり、と、雷かとも思うような音を立てて。
涙で水没していた視界が急にクリアになったのは、とんでもない風圧でやってきたつむじ風が私の目から涙を吹き飛ばしたからだと理解できるまでに、随分かかった。


”それ”は、真っ赤な雲を抱く真っ黒な空から垂直に墜ちてきて、暴風を巻き起こしながら灼熱の炎の中に降り立った。大きな風を受けて一度大きく炎は燃え盛る。しかし”それ”の尾が炎に塗れた地面を這うと、恐ろしくあっけなく消えた。


文字におこすことすら禁忌に感じるほどの邪悪な咆哮をあげて、体中のあらゆる鱗を逆立てる、その巨大な怪物は。
私と父の「永遠」の中に鎮座する、美しくて優しい、あの竜だった。


最終頁▼
冒険譚のラストシーンにて -4-


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