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紅い月がのぼる塔/3.氷の男

 モリは薄汚れた絨毯の上に横たわるマヤを見つめていた。

 長い亜麻色の髪が扇状に広がり、床の砂埃を巻き込んでいる。それを繁々と眺め、髪の隙間から覗く耳たぶ、そして首筋を見つめた。

 胸元の紐が緩んでいた。乳房の膨らみが横に流れ、怠惰な曲線を描く。視線でその流れを追ううちに、胸の奥の泡立ちと、息苦しいほどの鼓動を感じた。

 抗えない衝動。

 触れてみたい。

 彼は息をつめながら、無防備な白い塊に手を伸ばした。これが、間近で見る、女という生き物。

 指先が膨らみに触れた。ぬるりとした肌の感触。想像以上に温かく柔らかなそれに、思わず飛び上がった。

 これが、乳房……。

 顔を寄せていた。甘い花の香りが湧き立ち、モリの頬をくすぐる。目を閉じて唇を撫でる温もりを感じるうちに、呼吸を忘れていた。

 唇の先が触れた。柔らかい。うなじの痺れが爪先にまで伝わる。そのまま唇を軽く這わせると、えも言われぬ幸福感に頬を擦り寄せた。

 しかし、絞るような悲鳴と共に、女の身体が跳ね起きた。そして、絨毯の端まで転がり込むと、両膝を抱えて震えた。

 モリも獣のように飛びのいた。火照る頬を伏せ、指を小刻みに噛んだ。いつの間に下腹部で疼く熱に、彼自身、戸惑いを感じた。

「許してやってくれ」薄闇の中、その声は響いた。

「そいつは <女> を知らない」

 マヤは無言で周囲を見回すと、己の置かれている状況を把握しようと躍起になった。

 やけに壁の目立つ殺風景な空間。円形の天井からは、古びた装飾のシャンデリアが下がっている。しかし、それはただの飾りなのか、光源は壁一面の窓から射し込む月明かりのみ。

 窓際に一人の男が佇んでいた。背中を向けたまま、くすんだガラスの果てを見つめている。

 女はその姿を目にするなり、小さく身震いをした。

 長い黒髪。漆黒の衣。全身を覆い隠す薄い一枚布に、時おり鉛色の煌めきが走る。それはまるで、陰影を成し揺れ動く、死者の魂に見えた。

「そいつは……」彼は微動もせず、ガラスに映るモリを眺めていた。

「ちょっと <頭> がな」鼻から皮肉を吐き出した。

 部屋の片隅に隠れ、膝を抱えたモリ。彼は見えない膜の力で、自分の存在を隠そうとしていた。

 忘れもしない。あの瞬間に垣間見た少年と、まるで別人のよう……。

 マヤは不審に凝視すると、消えた獰猛な牙を見つけようとした。

「まさか、あの <魔女> が、おまえのような女とは……」

 割り入る男の声には、明らかに嘲りの歪みが感じられた。だが、その根底には奇妙な艶があった。

「もっと孤高で、まともな……」苦笑の吐息と共に、いやらしく濁した。

「その力は類を見ず <怪奇> と聞いていたが。は、まさか、こんな平凡な女が」

 そして、語尾を吐き捨てた。

 マヤは勢い良く立ち上がった。いわれのない嘲笑は慣れている。しかし、悪夢の中の愚弄に、体液が煮つまった。

「何が目的なのかは知らないけど、煽っても無駄よ。あなたの言う平凡な女だもの」

 両手を握るマヤに、男はくつくつと咽喉を鳴らした。

「おれが欲しいのは、おまえの才能。治療者としての腕だ」

 マヤは湿気を含んだ木貼りの扉へ、一直線に取りついた。しかし、どんなに持ち手を引いても、がたがたと軋むだけだった。

 更に踵を返した。壁一面の窓に駆け寄り、埃の蓄積したガラス扉をこじ開けた。

 バルコニーの正面には、紅い満月が迫っていた。四方に月光を張り巡らせては、逃がしはしないと笑った。

「きゃああああああ……!」

 蔦の絡んだ黒い鉄柵。夜露に濡れたそこに身を乗り出し、闇夜に向けて叫んだ。しかし、鋭い悲鳴も波間に溶ける。露台の遥か下には、目も眩む黒い荒波が広がっていた。

「こんなやり方で……あなたに従うと思うの」

 振り返ったマヤは、暗闇に佇む二人の男を見つめた。

「お願いしている訳じゃない。強制だ」男は漸く顔を向けた。

「手荒な真似はしない。ただ、治療を望んでいるだけだ。簡単だろ。素直に従いさえすればいい」

 黒髪の下から、冷やかな漆黒の瞳が光った。

 マヤは息を呑んだ。長い黒髪が胸まで流れ、男の半顔を不自然に覆っている。だが、わずかに晒した素顔は、それを全て補うほど、身の竦む美しさだった。

 炎をも凍らせる無慈悲な美。恐れを感じる一方で、底の見えない暗黒の華に、たちまち魅了されてしまった。

「おまえも、おれをゴーストだと……?」

 細めた眼が怪しく輝き、卑屈に口端が切れた。

 幻のような、現実味のない夢の中の住人。彼は本当に生きているのだろうか。

「あなたが、ゴースト?」

 マヤは男の全身を舐めるように見つめ、塔に流れる噂を辿った。

 月夜に忽然と現れる不気味な影。無人であるはずの月の塔に、死者の魂が宿る。人々はその噂に怯え、誰もここに近寄ろうとはしなかった。

「そんな噂、私には何の意味も成さない。あなたが誰だろうと、例えここが月の塔でも、私は怖くない。だから、早く帰して!」

 男は愉快に笑った。月に照らされた横顔が艶めかしく揺れる。だが、そこに冷えた風が吹き込んだ。

「残念だが、おまえをここから出すつもりはない。おれが、満足するまで」

 片目でマヤを見つめ、残酷に微笑した。

 彼女は鳥肌が立つほどの束縛と、それに対する嫌悪を感じた。しかし、意思が拒む一方で、身震いするほどの引力に逆らえなかった。

「こんなことをしてまで、どうして私が必要なの……」

 男が口を開こうとした時だった。彼方から馬のいななきが届いた。それは静寂に包まれた闇夜を裂き、彼らの狭間を抜けた。

 男はマヤから意識を離すと、バルコニーの先に躍り出た。

「クロエ!」言葉にならない歓喜を上げ、波音を縫ういななきに酔いしれた。

 その頬は瞬く間に上気していた。怪しく潤んだ瞳と、震える濡れた唇。

「クロエ……クロエ……」

 同じ言葉を呪文のように繰り返し、絶句するマヤに見向きもしなかった。

 何の魔法だろうか……。彼女は豹変した愚者を視線で追った。

 浮かれた足取りに黒髪がたなびき、男の隠れた半顔を月光に晒す。

 あれは……。

 息を呑むマヤに一瞥もくれず、閉ざされた扉に崩れ込んだ。そして、戦慄く指先で鍵を開けると、無邪気な少年のように飛び出して行った。

 マヤは見てはいけないものを見た気がした。男の半顔に刻まれていたもの……。

 それは、滑らかな皮膚を覆い尽くす、黒く焼けただれた傷跡だった。

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