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紅い月がのぼる塔/26.堕ちた野良犬

「マヤ……」

 クロエは肩から滑り落ちたドレスを構うことなく、快楽の波の中で囁いた。

「おまえは、一部始終を見るの……魂をも食い尽くす……究極の愛の営みを。おまえたちの目合《まぐわい》など、茶番であることを……教えてあげる」

 猛り狂う己のものから、レンの身体を引き剥がした。そして、即座に男の首輪を掴み、服の襟から、みぞおちまでずり下ろした。

 無抵抗の黒髪が舞った。それは、剥き出しにされた肌に滑り落ち、隆起した胸板で曲線を描いた。

 女はその肩に魔物の如く噛みついた。苦痛に眉間を寄せて耐える男の顔は、身震いがするほど艶かしかった。

 マヤの目から涙が零れ落ちる。これが己を抱いた男の姿。いや、それともあれは、彼の抜け殻だったのかもしれない。垣間見ることもできなかった情欲に、胸が絞られた。

 肩に歯型の残ったレンを、女は麻縄の蜘蛛の巣へと引き摺った。垂れ落ちた蜘蛛の糸を、男の手首に巻きつける。

「何をするの……!」

 マヤはとうとう、二人の間に割って入った。寝具の上に乗り上げ、蜘蛛の巣の前まで這い進んだ。

「見ていなさい。レンが最も美しく、快楽に身を委ねる姿を。誰も目にすることのない、全てから開放される瞬間を」

 レンはマヤと荒い網目を挟んで向き合い、蜘蛛の巣にかかった獲物となった。更に上半身を縦横に縛られ、麻縄の巣からわずかも動けなくなった。

「レン!」

 ぎりぎりと食い込む縄。信頼し、こうして身を委ねることが、クロエに対する愛の証。痛みに顔を歪め、網の向こうから泣き叫ぶマヤを一瞥した。

 誰にも見られたくない姿だった。その羞恥に気がおかしくなりながら、一方で緊縛される苦悶の安らぎに喘いだ。

「おまえはいったい誰のもの」

 身動きのとれないレンを、クロエは背後から掻き抱いた。息の出来ない束縛に、視界が闇に染まっていく。耳鳴りの騒がしい意識の中で、男は吐息と共に呟いた。

「ク、クロエの、もの。クロエ、だけの、ものだ」

「それならなぜ、わたしを欺いた。この魔女に心を奪われたからでは……?」

 麻縄を強く引いた。それはレンの身体にますます食い込み、網目から肉がはみ出した。

「やめて!」マヤは堪らず唸りを上げた。

 しかし、これは彼にとって、愛すればこその緊縛。クロエの心が唯一感じられる愛の痛みだった。逃したくないという強い思い。女に束縛されればされるほど、生の喜びが湧き上がる。

「魔女などに……心奪われてなんか、いない……」

 こぼれ出たのは、マヤを突き放す言葉だった。

 女は満たされた笑みを浮かべ、耳を塞ぐ黒髪を掻き上げると、震える耳たぶを噛んで言った。

「それなら、なぜ」

 レンは静かな囁きに首を振って答えた。

「分からない……」

「分からない?」

 ついには腿に手の平を這わせ、熱い下腹部を握りしめた。途端にせつない悲鳴が上がる。

「許して……本当に、分からないんだ」

 泣き声に似た呟きも溶け、心も身体も追い込まれて行く。クロエは朦朧として行く男の臀部を掴み、乱暴に服を引きちぎった。そして、前触れもなく、その中に割り入った。

 レンは咄嗟に唸りを搾り出した。駆け抜けていく痺れと共に、身体が無条件に反応する。苦痛の狭間を抜けた内臓を抉られる快楽に、我を失い、身悶えた。

「レン……」

 マヤは呆然と頭を抱え、飽和していく感覚に身を沈めた。

 男は虚ろにマヤを見た。背後から揺さぶられ、途切れた呻きを漏らしながら、果てに見える己の姿を追った。

 死力を尽して飛び出した夜の厩。わずかに残った布切れを纏い、牧草地を怯えた野犬の如く駆け抜けた。何もない。肉も骨も心も、魂でさえ奪われてしまった。

 躓き転がり落ちては逃げのびる村の果て。遠くへ、少しでも遠くへ。誰も知らない最果ての地へ。

「クロエ……」

 彼は無意識に名を呼んでいた。


──汚らしい <野良犬> だこと──


 どれだけ駆けたのだろう。見知らぬ林道に横たわり、不甲斐なく力尽きていた。ここでは駄目だ。まだ逃げなければ。誰にもみつからないうちに。

「途方もなく寂れた林道に、裸同然の死にかけた野良犬。ここはなんて愉快なの」

 レンはランタンの明かりに照らされていた。途端に這い逃げるものの、何者かによって押さえつけられた。咽喉はひりひりと痛み、微かな息も絞り出せない。

「水をおやり」

 暗闇に灯る淡い光の中で、 <水> という天からの響きが、彼の曇った瞳に炯々とした光を与えた。

 差し出された水筒にむしゃぶりついていた。ひび割れた唇に沁みる生温かい感触。萎びた海綿を水に浸すように、身体の細胞が膨らんで行く。全てを飲み干し、漸く辺りを見回した。

 目の前にはおよそ場違いな、黒光りの馬車が停まっていた。その横に立つ、マントを羽織った薄気味悪い小男。更に車体の扉は開き、その中からは白いドレスの貴婦人が静かにこちらを見つめていた。

 レンは幻を見ているのだと思った。豪華なキャリッジと、明らかに階級の違う淑やかな女性。

 女は薄く微笑を浮かべ、呆然と立つ少年を上から下まで眺めた。半顔を埋める醜い傷跡。そこに全てを見透かす千里眼が這い回り、紅い唇を横に伸ばした。

「おまえを拾ってやろうか。全てを消し去り、わたしの飼い犬になるのなら、ここより遠くへ連れて行ってやろう」

 ここより遠くへ……。麻薬のような言葉だった。レンは布切れと化したシャツを掴み、女の切れ長の目を凝視した。

「本当に……遠くへ……?」

 少年の小さな問いに、女は微笑を浮かべて答えなかった。しかし、その瞳の奥には、重大な決断を迫る確かな輝きがあった。

 相手は見知らぬ女だ。しかし、自分にはもう、守るものも戻る場所もない。今以上の最悪がこれから起きるとも思えない。そう、あの悪夢の村から逃げ出せるのなら、どんなことでも受け入れてみせる。藁にもすがる思いで、女の馬車に取りついていた。

「何をすればいいの。どうすれば遠くへ行ける?」

 身体の軋みが酷かった。だが、少年は戦慄く芯を抑え、神さながら現れた救いの手を、死んでも離すものかと思った。

「何も」女は不敵に笑った。

「わたしの <飼い犬> になればいい。ただし、条件がある。全てを消しなさい。おまえの生きた証をわずかも残さず消し去るのなら、わたしの飼い犬として、おまえが何よりも欲しいものをやろう」

 レンは迷いもなく頷いた。 <その程度> のことで、苦しみから逃れることが出来る。過去を消し去るなど、容易いことだと思った。

「朝まで。それ以上は待てない。それまでに、全てを葬りなさい」

 彼は再び固唾を呑んで頷いた。

「馬を貸しておあげ」

 小男は一頭の馬をレンに渡した。少年は即座に跨り、慣れた手つきで手綱を反した。時間がない。夜明けは目前に迫っているのだ。脇目も振らず走り出した。

 捨ててやる、何もかも。全てを奪った者たちから、己を取り戻す為に。そうして、逃げ出したはずの道を遡った。


「も、もっと……クロエ……」

 クロエは麻縄の巻きつく手首に指を這わせ、男の手の甲を覆った。絡み合う細い指先。背中に押し当てた柔らかい乳房からは、女の鼓動が伝わる。

 麝香の香りが螺旋を描き、呼吸を失うレンの身体をきつく締め上げていく。

 

 燃え盛る炎。真夜中の農村が紅蓮に染まり、火の海が瞬く間に波紋を広げる。少年は手に松明を持ち、運命を分けたはずの炎を味方にした。

 焼き尽くす。彼は馬を走らせながら、あらゆる家屋に火をつけた。家主の顔一人一人を脳裏に浮かべ、厩の出来事を身体に刻んだ。

 苦しい。悪魔の所業を人々は嘲り、見て見ぬふりをした。許すものか、絶対に!

 レンは涙を流しながら、跡形もなく火に包まれた農村を見つめて笑った。

「もっと……クロエ……おれを、殺して……お願い……」

 心臓を揺さぶる突き上げに、男は歓喜の叫びを上げた。

 マヤは溢れ出る嗚咽を全力で抑えた。クロエに抱かれたレンの魂は、間違いなく生死の狭間で解放されていく。しかし、消えたはずの傷跡が蘇り、彼の半顔で泡の如く蠢いた。

「レン……」

 滴り落ちる汗が、男の身体を滑らかに磨く。小刻みに漏れる甘くせつない吐息で、彼らの交わる熱が上りつめているのを知る。快楽と悦びに喘ぐレンは、極めて繊細な艶を身体の内から発散させていた。

 少年は寝ぼけ眼で困惑する弟を無言で見つめた。突然現れた別人のような兄を、モリは複雑な色で見つめ返した。だが、レンはおもむろに食堂に火を放ち、弟の腕を引いた。

「何するの!母さんは?」

 その言葉にレンは一瞬立ち止まった。そして、たちまち広がる炎の中を振り返り、母親の部屋の前を凝視した。

 そこには、母が立っていた。朦朧と髪を振り乱す死人さながらの母が、少年を <亡霊> と呼ぶ母が、炎の海で悲鳴を上げた。

「母さん!」

 手を伸ばす弟を、少年は片手で遮った。かつて、子供たちを愛した美しい母。この黒髪を撫で、父親似だと幸せそうに笑った日々。あれは、幻だったのだろうか。

 亡霊でもいい。忘れられるよりは。父に対する憎しみの対象であっても、存在が消えるよりはましだと思った。愛していた。こんな母を。愚かだと言われようと、母を愛していたのだ。

 レンの唇が震えた。炎の向こうで取り乱す母を見つめ、玉の涙が弾け出た。

「母さん……」

 だが、少年が手を伸ばそうとしたその時だった。レンの姿を確認した母は、突然、歪んだ奇妙な笑みを浮かべて言った。

「レン助けて。母さんはここよ、レン、お願い、助けて!」

 レンの律動は急速に止まった。魂も心も瞬時に冷えていく。少年は何かに打たれたかのように両目を見開き、松明を無情に投げ入れると、弟と共に家を飛び出した。

「レン!」

 母の声が聞こえた。レン。そうか、彼女は分かっていたのだ。今まで息子であると分かっていながら、そういう女だったのだ……。

 

 レンの身体がしなやかにうねった。同時に蜘蛛の巣を掴み、艶やかな咆哮と共に闇の中へ果てた。

 長い睫毛が痙攣する。その潤んだ瞳からは、一筋の涙が零れ落ちていた。

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