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猫の十字架/5.分かれ道

 あたしは中央広場を取り囲む錆ついたベンチの中でも、節操のない茂みに覆われた一角に座っていた。ここはある種の隠れ家で、唯一陽光の恵みを受けた広場からおこぼれの木漏れ日が届く。それが非日常的な空間を醸し出し、魔の巣窟を忘れさせてくれるあたしだけの場所となっていた。

 ある時、腐蝕した車輪を枝からぶらさげ、枯れ木やブリキのおもちゃで彩りを加えた。タイヤはテーブルがわりだし、種々のガラクタはあたしという<もの>を象徴したオブジェだった。そこで、淡々と読書に耽る醍醐味。そんな些細な喜びに浸れるほど、最近のあたしは浮かれていた。給水場の崇めるべき鶴が隣人であることに運命を感じていたのだ。現実主義を誇りに思っていたあたしがお粗末な結末だが、どんな時も手を振ってくれるイズミさんを、どんな時も受け入れられる事は奇跡に近い。あたしたちは互いの壁を不思議なほど簡単に越えていたのだ。

「テルちゃん」

 そこに、いつ馴れ合ったともしれない呼び掛けが届いた。新参者の看板を背負って歩くマスクマン。それが危険だという発想に至らないのか、ユーイチというバージンヘアのお坊ちゃんが、それこそ<運命的>な出会いとばかりにやってきた。ここを嗅ぎつけるなんてどんな性能のアンテナを持っているのだろう。

 あたしは本に没頭しているふりをした。イズミさんに乗じて関わったくらいで「テルちゃん」というお粗末な呼び名までつけている。そんな能天気な男にあたしの貴重な時間を奪われている暇はない。

「いつもここにいるの?」

 それはあたしが訊きたかった。こんな昼日中に茂みをうろつく変わり者。おまけに注意が散漫だ。未だに本島の制服に身を包み、校章入りのボストンバックを持ち歩いているような外界の学生気分じゃあ、いつかカモにされるのがおちだ。

「猫、見なかった?」

 洗いざらしのマスクが、茶褐色の呆けた瞳を際立たせた。

「おかしいな。こっちに逃げたと思ったんだけど」

 ここがあたしの隠れ家だと察知したうえで、呑気に「猫ちゃん」と言って、茂みを掻きわけている。まったくいつになったら壁の色が読めるのだろう。

「あのさ、野良猫なんてここにはごまんといるの。一生かけてもあんたのお望みの猫に会えるとは限らないわけ。だから早く消えてよ」

「違うよ」

 まさか、長居をするつもりだろうか。ボストンバックを肩からおろしながら、ユーイチは不服そうに身を乗り出した。

「おれが探しているのは、ちょっと……」

 そう言いかけて、いきなり小憎のような笑みを浮かべた。

「へえ、本を読むんだ」

 しまった。あたしに話しかけられて完全に気を良くしている。まるで関門突破と言わんばかりに隣に腰かけ──ここはあたしのベンチだ──大胆に本の表紙を覗き込もうとした。もちろん、そんな事はさせない。

「おれと同級生だったんだね。給水場で色んな話をしたって、母さん、喜こんでたよ。テルちゃんと話すと生活に張りが出るみたいだし、たまには遊びに来てやって」

 いつも本島のことを面倒くさがらずに教えてくれるイズミさん。あたしの望みを馬鹿にしないし、だからといって深追いすることもない。そんな聡明な彼女との会話は、あたしにとっても日常の癒しだった。

「あんた学校は。さっさと行けば」

 基本的に同年代は好きじゃない。早くから大人の中で生きてきたせいか、所作も思想も幼く感じ、あたしを掻き立てるものが何もなかった。

「また迷子」

 彼はその代表だ。飄々と地図を広げる様子は異質に見え、そこだけが切り抜きのようだった。

「でも、困った時は中央広場を目指せ、てね。不動産屋の受け売りだけど」

 また見え透いた嘘をついている。どんなに迷宮でも通学路には親切だ。ユ―イチを受け入れられない理由がわかった。彼はいつだって上面だけをなぞっている。

「なかなかこの臭いに慣れない」

 マスクを外しながらまた話をすり替えた。そして、両脚の間に柳のように項垂れ、あたしを不可思議な瞳でみつめた。

「毛穴の中にまで染み込んできて、水浴びくらいじゃ取れない気がする。風呂があればなぁ」

 水が貴重なごみの城では、風呂は夢のまた夢。たまに子供用のプールで行水をする大人がいるけれど、大低はタイル敷きのトイレで水を被るしかない。ビンさんが言うには、ここの人間はすぐに分かるらしい。本島の住人からすれば死臭がするのだ。

「テルちゃん、しっかりしてるね。仕事をしながら家事もやって凄いと思う」

 そんな些細な言葉が引っかかった。もし、あたしの仕事を知ったら、同じように凄いと言うだろうか。

「ここじゃあ当たり前のことなんだけど」

 あたしと本島で生まれたユーイチの人生は山と谷ほどの差がある。そのことを宣告されたも同様のあたしは、洗濯女と何一つ変わらない。

「ねえ、ずっと気になってたんだけど、おれ、なにか悪いことをしたかな」

 不意に本を閉じてしまった。ユーイチは本当に何もわかっていないのだ。

「初めて会った時からおれに対して冷たいよね。母さんにはそんなことなかったのに……」

 イズミさんと自分の立ち位置が同じだと思い込んでいる汚れのない素直さ。そして、それを平然と口にできる女々しさ。これは同年代だからこそ起こり得るのだろうか。そうだとしても、言いようのない不快感を覚え、額の毛穴が閉じていくのを感じた。

「そういうところ」あたしは余念なく言いきった。

「冷たいと言いながら、あたしの大事な時間を無視してここに居る。そういうところ」

 すると、ユーイチは渦巻く感情を薄い硝子で止めているといったような顔をした。

「ごめん、意味がわからない。会った時におれを否定したよね。あれは何が気に障ったのか教えてよ」

 それを聞いてどうするつもりだろう。ただ、理由を求めているのだろうか。ユーイチがあの時のことを未だに気に病んでいたとしても、あたしにとって、あの日はもう終わったのだ。

「待ってよ。あたしは最初からあんたに期待を持たせなかった。それなのに、そんな傷ついた顔をしてみせないでよ。これはあたしの意思だし、望むような答えを引き出そうとしても無理よ」

 きっと理不尽とは無縁な生活をおくってきたのだ。物事には何でも理由があると思っている。一方的な情動に翻弄され、無力感を味わったことがないのかもしれない。

「酷いな。おれだって傷つくよ。新しい土地で少しでも隣人と馴染めたらと願う気持ちがそんなに不思議なこと?」

「だから……」これ以上、食い下がって欲しくなかった。それは、互いにとって果てしなく無意味だからだ。

「あんたとこうして口論する気はないの。理由なんかない。あんたとは、ただ、関わりたくないだけ」

 あいつの目玉に一筋の血管が浮いた。まるで狼狽を振り翳すように、唇まで震えている。

「開き直れば許されると思ってるの?おれが何を感じようと関係ない。それがどんなに酷いことかわかってない」

 そう思うのなら踵を返して立ち去ればいい。物事はとても簡単なはずだ。それとも、傷つけたこと自体に責任を持てと言いたいのだろうか。

「そうよ、あたしは酷いの。あんたが思っているよりずっとね。もうこの話は終わり。馬鹿じゃないの」

 あたしはあたしの場所から立ち去ろうとした。それが最も適した方法だと思ったからだ。しかし、あいつは直ちに手首を掴んで言った。

「逃げるの?まだ話は終わってない!」

 靄に隠された強い意志が、ユーイチの指先から伝わった。

「触らないで!」

 反射的にそれを振りほどいていた。あいつの一言一句が奇妙に聞こえる。ここまで躍起になるほど、あたしたちにとって重要なことが隠されているとは思えない。

「あたしに何を期待してるのよ……」

 こんなに顔をつき合わせ、傷つけ合うことすら麻薬の陶酔と言いたげに。

「友達に、なりたいだけだよ……」

「友達?」

 あたしは吹き出してしまった。胸に氷の矢を刺されても得たい者。そんなもの、この世にはない。

「あんた、あたしの何を知ってるのよ。あたしは友達なんか望んでない。それとも同情?大きなお世話よ。勝手にお坊ちゃんじみた考えを押しつけて、冗談じゃない!」

「お坊ちゃんか」

 ユーイチはいきなり自嘲じみた笑いをこぼした。禅味を干上がらせた嵐のような坩堝を浮かべて。

「君こそおれの何を知っているんだ。そうやって何でもわかった気になって、勝手に人を区分するなよ!」

 木霊が聞こえたような気がした。この茂みはそれほど静けさに満ちていたのだと、初めて知った。

「世の中で自分が一番可哀相だと思っているんだ。だから、相手を傷つけることも正当化できると思っている」 

 それは、苦悩に似ていた。羅列されていく言葉は彼自身の意思を置いてきぼりにして、先を急く言葉の群れ。

 あたしはユーイチの中に何を見ていたのだろう。ほんの一瞬だったが、彼の胸元に奈落が見えた。それは、頼りないほど真っ直ぐな、瞳をぶすぶすと燻す煙だった。

「ごめん……」

 しかし、それは火種と共に掻き消えた。ボストンバッグを投げ捨てた感情のように拾い上げ、ユーイチは全てを幻に置きかえて言った。

「も、もう話しかけたりしない。ごめんね、テルちゃん。本当にごめん!」

 そして、逃げ出すかのごとく去って行った。

 今までの人生はあたしにとって痛みでしかなかった。だから、あいつの存在も痛みの一部だと思っていた。でも、それは間違いだったのかもしれない。あいつの伝えたかったことの一端でもここで分かり合えていたら、何かが変わっていただろう。

 ユーイチも、あたしも。

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