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猫の十字架/1.ごみの城

 汚水の雨が降る闇の路地裏。それは、あたしにとって憎悪の対象でしかない。

 ひたひたと粘着質な靴底が飛沫を生んだ。そんな地を這う触手は男たちの惨めな懇願を思い起こさせ、蜘蛛の巣状の抜け道の中でもたちが悪かった。

「じじい」

 あたしは眉間に詰まった毒物を無理に押し出し、あらゆる怨念をぶつけた。

「じじい。じじい。じじい」

 鉄の味が舌を刺激するたび、あの咆哮が耳の蝸牛で暴れまわった。

──このメス豚がぁ!

 愚にもつかないちっぽけな殺意。

──小娘が誘惑なんかしやがって。売女!淫売!くそ汚いメスがぁ!

 辺りは酸い腐敗臭にまみれ、上着の化学繊維一本にまで貪欲に染みついていく。

 終焉をにおわせる黄ばんだ蛍光灯から澱んだ光が漏れていた。そこに八の字を描きながら集う蛾の群れ。あのせせこましい羽音は浅ましさの象徴、本能に抗えない生命の騒音だ。

「うざい」

 酩酊したヒキガエルが前途を阻んだ。すれ違うことすら困難なこの道で、節操のないごみ。その口から何が飛び出すかと、試しに腹を踏んでやった。

 空っぽだった。ごみはごみ以上になれない。蝕まれたこの地に巣くう、取るに足らない生き物だった。

 彼方から豚の悲鳴に似た軋みが伝わった。天井にのたくる錆びた排水管が、体内を巡る排泄物を当然のごとく海に垂れ流したのだ。 

 ここはそんな場所だ。常識をドブに捨てた不浄の楽園。それが美徳とさえ謳われる魔の孤島、通称ごみの城。

 途端に足をすくわれた。信じられないことにこのあたしが、迷宮ですら瞑目して歩けると自負するこのあたしが、危うく配線の束に顔を突っ込むところだった。

 足元に散乱していたのはごくありふれた物だった。引き裂かれたごみ袋、セルロイドの胴体、骨折したビニール傘。そんな無数のがらくたに足を捕られるほど屈辱的なことはない。

「最悪」

 壁面を埋める疥癬の張り紙がやけに嘲笑していた。それに釣られて路地裏までが笑いだし、漆黒の闇に呑み込もうとした。

「やめて」

 この世に堕ちた日から幾万の選択を繰り返した。ここで灰になるべきか、あたし自身に問い続けた。

 そして、否と言う。

 きっと、それを咎める者はいないだろう。永遠に。

 鋭角に左折した先に突如として繭玉が浮かんだ。暗黒の中で唯一行く道を照らす一条の光。それが万華鏡のごとく回転し、中央広場へと手招く。まさに路地裏の奇跡。だからこそ、その先がどんなに悪質でも、この道を選んだ。

 繭玉を抜けると中央広場が広がった。四方を集合住宅──ものは言いようで、バラックの長屋を下敷きに上へと増殖した難民の砦。本島に見捨てられた者たちの、開き直りを感じさせる怒りの建造物だ──に囲まれたそこは、ごみの城の中核を担う吹き抜けの広場で、昼は住民の憩いの場。夜は極彩色のネオンが曼荼羅のごとく広がる屋台村へと変貌する。

 ここは狂気の溜まり場だ。鈎に吊り下げられた黄金色の若鳥。それを親の仇とばかりに素手で食らう人々。笑みをたたえた豚の頭部が看板で回転しているのを「洒落がきいている」と笑う、通りすがりの男女。

「お嬢さん、手相を拝見。よく当たるよ」

 壁際に鎮座していた老人が虫眼鏡越しに薄ら笑った。その口元には彼らにとって微々たる富の象徴である、念入りに磨かれた金歯が主張をしていた。

 卑しい顕示欲だった。いつか、こんな連中を見なくてすむ世界へ行ってやる。薄い霧の向こうへ。本島と呼ばれる場所へ。

 あたしは構わず踵を返した。敷かれたレールをひたすら歩き、踊り狂う餓鬼を素通りする。ただ透明になることだけを祈り、安酒と古びた油の入り混じった煙を見上げた。そして、ようやく今夜の終点に到着した。

 下品なほど垂れ下がった提灯に雑な筆文字で書かれた屋号、ホルモン焼き敏。その店外に溢れかえった小鬼に気付かれないように、できるだけ肩を竦めて歩いた。

「ビンさん」

 薄闇の勝手口では片手でビール樽を運んでいる男がいた。本名を敏夫といい、至って常人だった。しかし、この屋台村で彼を知らない人間はいない。<左腕の悲劇>と呼ばれた戦歴を住人たちは憧憬の目で見つめ、そして、勝手に崇めたのだ。

 二度と蘇らない片腕。虚しく揺れる袖口が、今夜も闇に紛れようとしていた。

「ああ、テルか。どうした、その髪」

 完全に失念していた。堂々と癖のない黒髪を晒し、厨房から漏れる暖色の光の中で馬鹿みたいに立ち尽くしていたのだ。

「かつら……」

「はあ、かつらね。おい、こんな時間にうろつくなって言ったろ。昼でも構わないって」

 空気が軋んだ。彼が無精ひげを掻くのは苛立ちを隠しているという無言の申告。でも、今夜はあたしにだって譲れない理由があった。

「昼は駄目だよ。あいつにバレる」

 ここは早々に立ち去ることにした。彼の眉間に細い皺が刻まれた気がしたからだ。その一瞥はあたしの繕いを繕いとして解き始める。そうなる前に、取り出した万札を彼の手に押しつけた。

「おい、ちょっと待て」

 やはりここは大股に退くべきだった。

「こんな大金どうした。いつもと額が違うだろうが!」

 希望の欠片が木の葉のように散った。あたしの血脈と同等の日銭が、ぬかるんだ地面を容易く格上げする。

「これはなんだ」

 その上、うなじをわし掴まれ、無頓着に揺さぶられた。頬を刺す視線が痛い。血だまりとなった体液が唇の皺に沿って流れ、鈍色に染まった。

「誰にやられた、テル!」

──調教してやる!

 今さら誰にやられたかなんて口にしたくもない。代償はいつもの何倍も奪ってやった。それで、終わりだ。

「ど変態の客だった。だからふんだくってやったの。それだけ。大袈裟にしないでよ」

 怒鳴られるかと思った。それほど、内臓を通過する乾いた空気音が響いた。しかし、彼は「来い」と引きずるだけで、それ以上の追及はしなかった。

「もういいよ……」

 ビンさんには悪いけど厨房には入りたくなかった。あの絶望を味わった日から、屋台村の深部から抜け出すと決めたのだ。だけど、どんなに爪先で踏み止まろうと、筋肉が浮くほど引かれては成す術もなかった。

 瞬く間に煙と熱気が充満した。壁に貼りついた埃まじりの油が一層粘度を増して見える。ここは男たちの聖域。あたしを地の底へと貶める、忌むべき場所だった。

 案の定、あたしが厨房に顔を出したとたん、談笑に夢中だったはずの男たちの視線が驚くほど統率して動いた。彼らは瞬時に女のにおいを嗅ぎ分け、酩酊したふりをしながら、本能という網で珍しい肴を掬いあげた。その目は異様なほど炯々と輝き、黒い欲望が見え隠れしていた。

「おい、テルミちゃんだろ。ずいぶん綺麗になったなぁ」

「大人になったね。いくつになったの」

 方々からあがる猫なで声。それは、十歳の時にここで働いて以来、物珍しさで構ってくれた連中だった。

「おっちゃんの膝に乗るかい。お馬さんごっこしようか」

 一斉に下劣な笑いが爆発した。ここ一番の見せ場とばかりに調子を合わせる者までいる。

「お馬さん、お馬さん、パカパカパカパカパカパカパカ」

 心底、戦慄した。この男たちは幼少の頃の記憶を貶め、悪びれもせずに全霊で凌辱しているのだ。

──死ね。

「悪いが今日は店じまいだ。みんな帰ってくれ」

 ビンさんの一言があたしの灼熱を遮った。男たちは憤懣やるかたない咆哮をあげ、大袈裟にカウンターまで詰め寄った。

「テル、氷を持って帰れ。いつもの場所だ」

 それでも彼は動じない。あたしにビニール袋を差し出し、奥にあるタイル敷きの作業場へと促した。

 そこには裸電球が一つと、業務用の大型冷蔵庫が一台、壁にかかったビニール手袋、そして丸椅子があった。無造作に置かれた切り株状のまな板に中華包丁が刺さっているのも、あの頃と変わらない。ここはあたしにとって忘れもしない場所。終わりというものを知った場所だ。

 あたしは純度の高い氷をシャベルで掬い、一粒を口に放り込んだ。七年前に聞いた──トンッ──という音を脳内に蘇らせながら。

 初めて仕事をしたのは十歳になったばかりの頃。選んだのはビンさんの補佐だった。彼の片腕となり生きた鶏をまな板で黙らせるには、子供でも十分に役立つはずだった。でも、どうしてそんな血生臭い仕事を選択したのか、誰だって疑問に思うだろう。最期を予感するものの末路に興味を抱いただけなのか、その心情は思い出せない。ただ、現実は簡単ではなかったことは、皮膚の裏にまで焼きついている。

 結局、あたしは上手くできなかった。根本に横たわる弱肉強食という鎖を受け入れられず、対峙することはおろか、その目を見ることすらできなかった。

 ビンさんは子供だろうと容赦がなかった。使えない者は即見限る。心の準備という生温い時間を与えず、自ら手本を見せ、そして急かす。

「押さえていろ」

 そんな命令に応えるのが精一杯だった。今にも羽ばたきそうな胴体を無我夢中で押さえつけ、その躍動感に尻ごみをした。生物に触れたのはあれが初めてだったし、滑らかな羽と筋肉の微細な振動、そして、紛れもない呼吸は人間と同等の生物だと手の平で感じた。

 そう認識した瞬間、歯の根が合わないほどの恐怖を抱いた。

「やめるか」

 それはあまりにも素っ気ない審判だった。彼を失望させたのだろうか、それとも見下されたのだろうか。どちらにせよ、敗北感を抱いたまま、放り出されることの方が脅威だった。

「やる!」

 全身で獲物を捕えたのはあたしだった。一撃できるように。使える人間だと思われるように。

──トンッ──という、軽妙な音がした。予想以上に冷然としていて、何が起きたのかまるで分からなかった。まな板の下に転がった赤土色の鶏冠を見つけるまでは。

 瞬く間に朽ちたそれは斑を帯び、嘴の色も褪せた。ビンさんは片手であたしを掴み、顔を背けること、一ミリも逃げることを許さなかった。まるで、現実を直視しろ。そう言っているように思えた。

 あたしはただ凝視するしかなかった。艶めく筋肉の層。そこから滲み出す無念の雫。繊維を伝い、一滴一滴を慎重に解放しながら、まな板の上に真紅の溜まりを描く。だがそれも束の間、肉塊となった両脚が勢い良く痙攣した。

「生きてる……」

 太い糸を断ち切られてもなお誇示する生命力。これが、生物の本能というものなのだ。

「生きてるよ!」

 それに対抗するように、萎びた胴体を板へと押し付けた。

「いや、終わった」

 彼の視線は嘆息を含んでいた。あたしを暖簾のように押しのけ、手際よく羽根を毟り始める。続いて腹を裂き、臓物を取り出し、バケツへと俊敏に分けていった。

「もたもたするな。全部いただくんだ。ありがたくな」

 一呼吸をする間に、それはただの食物と化していた。漂うのは天にも昇る高揚感。

「やった!」

 あたしは両手をあげて吠えた。説明のつかない勝利に酔いしれ、そして、その場を跳ね回った。

──これが末路。生命の絶頂と終わり。その一部始終をこの手の平で感じた。同じ命を持つモノの……。

 嘔吐していた。前のめりになった身体を、ビンさんの片腕が支えた。

「他の仕事を探せ」

 口元に冷涼とした感触が伝わった。丸椅子で夢想していたあたしに、ビンさんが軟膏を塗ってくれたのだ。

「本島の連中はここの人間を物だと思ってやがる。わざわざここまで女を買いに来るやつに、まともなやつはいねえ」

 彼の言うとおり、あの悪魔に豹変した冴えない中年男は、皺のあるスーツを着て地味に近寄ってきた。額に脂汗を浮かべ、さも慣れない風を装って。

──生きる価値すらないメスがぁ!

「わかってる。説教はやめて。言っておくけど身体は売ってないから」

 すると、矢のような舌打ちが飛んだ。

「似たようなことやってんだろ。開き直るな。なんだ、その格好は」

 上着の下はブラウスと格子柄の学生服だった。確かにベロアのリボンはやりすぎだし、純白のハイソックスを揶揄したい気持ちもわかる。でも、仕事に対してしのごの言われたくなかった。

「変態じじいはこの格好が好きなの」

「乳くせえ餓鬼のどこがいいんだ。おまえ、いつか殺られるぞ」

 そう吐き出し、床にバケツの水を撒き散らした。

「とにかく、十七の小娘が顔を腫らして帰ってくるのは尋常じゃねぇ。金の為とはいえ、もっと上手くやれ」

 彼の言い分は至極まともだった。だけど、あたしは知っている。ビンさんも本島に居た頃は無茶をしていたということを。その証拠に誰かが言っていた。片腕はお礼参りの貢物だと。

──これ以上、殴ったら躊躇いもなく刺す!本気よ。あたし、人を刺したことがあるんだから!

 心配しなくても護身用のナイフくらいは持っている。五年前、あたしの人生を覆したあの事件から、年中鞄の底に貼りつけていた。

──じょ、冗談だよ。ただの冗談、ね。僕にも君くらいの娘がいてね。はは。でも、オプションにはなかったかな。ははは。危ないから、ね、ね。お金、全部あげるから、ね。

 もちろん、恐怖を感じなかった。二度<殺されるものか>と、拳を胸に抱いたのだ。

「いくらになった?」

 頬の氷が解け始める頃、厨房を覗いて言った。煙が消えた店内は、以前より煮詰めた飴色にくすんでいる。

「三百くらいだな」

 彼は傷だらけのシンクを磨きながら、足下に忍ばせた金庫を眇めた。

「三百か……あと五十万。そうしたらここを出る。ねえ、ちゃんと守ってよ。何を言われても絶対に渡しちゃあ駄目だからね。あの女、なんか気付いてるみたいなんだ」

「わかってる。聞き飽きた」

 例えそうだとしても、言って欲しかった。大丈夫だと、たった一言が欲しかった。

「ここを出てどうする。本島にあてでもあるのか」

 ビンさんにしては珍しく、声音がくぐもって聞こえた。

「あてなんかない。でも、ここよりは百倍マシ。指折り数えながら死ぬのを待つくらいなら、本島で野たれ死んだ方がいい」

 彼は何も答えなかった。しかし、刹那の沈黙の後、淡々と上着をはおり、背中を向けて言った。

「送ってやる。水が出なくなる前に」

 照明が儚く消えた。蛇腹式の鎧戸が鳴き声をあげ、ようやく店じまいを告げる。広場の宴会は落ち着きを取り戻したものの、酔い潰れた屍で埋まっていた。

 ここでは夜間の配水制限が常だ。日々増えていく人口に対して、供給源があまりにも少ない。濁りのない水を得るのは不可能になっていて、氷一つにしてもビンさんの伝手で手に入れている貴重なものだった。

 あたしはそんなお宝を口に放り込むと、くたびれた背中に向けて言った。

「心配性」

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