女神の仮面/6.押し寄せる闇

あれから瞬く間に月日が流れて行った。
館の地下には<抜け道>が繋がり、術によって閉ざされている。
僕はそのことも忘れ、日増しに増加する凄惨な出来事に悔しさを募らせた。
片時も安らぎのない世界。
エントランスを埋める民の姿は、傷つき、痩せ細り、正視するのも憚られた。
<真の名を呼ぶ者>が復活した。
人々はその噂で湧きかえったが、僕は悪戯な希望など抱かなかった。
それよりも早く、この現状を何とかしてくれ…。
噂が流れてから、ラカンカは一度だけ戻って来た。
「翔平さまは素晴らしい方だ」
新たな<真の名を呼ぶ者>は、不思議な名を持つ異界の住人。
弟は僕たちの事など目もくれず、延々とその話を語った。
「兄貴もきっと好きになるよ。何ていうのかな…人柄も穏やかで、飾り気がなくて、繊細で。まだ戸惑っていらっしゃるけど、でも、秘めた力は到底かなわない。ああ、楽しみだなあ…」
心の底から興奮している。
「あの方が当主になったら、きっと世界が変わるよ!その為にも、翔平さまに全てを捧げる」
ミオは食卓を調えながら、冷ややかに言った。
「化けの皮が剥がれなきゃいいけど」
「ミオ!」
あのラカンカも、翔平さまの事だけは譲らなかった。
よほど好意を抱いているのだろう。いったいどんな人間なのか、僕ですら興味が湧く。
一族は僕にとって憎しみの対象でしかなかった。
いわば、実体のない幻の相手。
弟がその人物と毎日顔を合わせ、共に過ごしているというのが信じられなかった。
程なくして、世界に真の闇がやって来た。
あの、闇黒の化身が復活したのだ。
弟は無事なんだろうか…。
ひたすら祈るしかない日々。それが、どれほどの苦痛か。
しかし、とうとう不安が現実になる日がきた。
僕が最も恐れていたこと。エントランスの篝火が灯った。
館中を照らすほどの業火。それは、<抜け道>が使われたという合図。
僕は煌々と燃え盛る炎を見つめ、悪い予感に震えた。
屋敷から誰かがやってくる。何があったんだ…。
地下に潜り、物言わぬ扉を凝視した。
誰だ。<真の名を呼ぶ者>なのか…?
寝間着姿のミオが、壁を伝いながら追って来た。
意識を彼方に向けているのか、ぼんやりと夢中を漂っている。
「誰か分かるか。ラカンカも一緒か?」
答えを急く僕に、妹は深刻に首を振った。
「違う、ラカンカじゃない。知らない人…でも、酷く傷ついている…」
ますます跳ね上がる鼓動。やはり、何かがあった…。
痺れを切らす頃、重厚な鉄扉の隙間に青白い閃光が走った。
人間の力では到底動きそうもないそれが、微動と共に開く。
隙間から流れ込む冷えた空気。カビ臭く饐えた異臭が鼻を突く。
闇から零れ落ちるように這い出て来たのは、黒革の法衣を纏った銀色の老人だった。
「ブロジュ様…!」
僕は急いで取りつき、伏した老魔術師を助け起こした。
掌に伝わる全身の軋み。
酷い衝撃を負った身体は、動いているのが不思議なほどだった。
「すまない…」
彼はしきりに、そう呟いていた。
それが、どんな意味を持つのか…。
「ラカンカは!?」ミオはブロジュ様に向かって叫び散らした。
「兄さんに何があったのよ!」
飛びかからんばかりの妹を、僕は片手で押さえつけた。
しかし、ブロジュ様は首を振った。
「すまない…」
そして、僕たち兄妹を見つめた。
彼は語った。
囚われた翔平さま。そして、闇の奇襲。
屋敷が墜ち、ラカンカが…自らの意思で捕虜となったこと…。
「やっぱりそうだ。一族に関わるからこんな事になったのよ!ラカンカに何かあったら、あんた達を死んでも許さない!」
妹の暴言を止められなかった。
止められるはずもない。僕だって、同じ思いだ…。
悔しい。どうしてなんだ。ささやかな幸せが崩れて行く。
いったい、僕たちが何をしたと言うんだ。
ラカンカ…。
「そなたの弟は…立派だった…」
ブロジュ様は僕の手を握って言った。
立派…一族の為に危険を冒すことが、立派なのか…?
怒りを隠しきれず、ブロジュ様から顔を背けた。
どうしてその道を選んだんだ、ラカンカ…。
──俺は…強くなりたいんだよ──
馬鹿。おまえは、十分強いじゃないか…。
──大丈夫だよ。ミオとちゃんと確認したから安心してよ──
どんな時でも、僕を笑顔で安心させていた。
──好きだよ、オプシディオ──
誰よりも優しいおまえが…。
僕は両手で顔を覆った。
「兄さん…」
ミオが背中に縋りついてきた。
僕を掻きまわす目まぐるしい感情。
追いつめられた状況で、なお忠誠を貫いた弟の心情を思った。
あいつは、いつだってそうだ。
僕と同じ場所に立っていたはずなのに、ただ一人、先を行く。
憎しみに囚われ、止まり続ける僕と違って…。
立派…。
「ありがとうございます…」
僕はブロジュ様に言った。視界が涙で揺れる。
悔しさ、憎悪、辛さ、不安、恥ずかしさ。
ミオの体温を背中に感じながら、弟を想い、涙を流した。

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