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猫の十字架/6.隙間

 おれはごみの城の天辺を渡り歩き、おそらく最高層の<頂>であろう場所に佇んでいた。

 足場もくれず密集するアンテナの群れ。背後でたなびく濡れた洗濯物の匂いを嗅ぎながら、拝むこともままならない陽光を全身に浴びた。

 やっとマスクが外せる。そんな些細なことに一服の幸せを感じ、獣と同様の盛大な伸びをした。そのついでに欠伸に似た奇声が漏れ出て、それを威嚇したカラスが眼下に広がるブルーシートへと舞い降りていった。

 ここに来たのは孤島を見下ろしたかったからだ。五百の棟が連峰のごとく繋がり、中央に空洞を持った長方体の塊を成す。この中にはおよそ四万人が生活しているらしい。もちろん、おれもその一人だ。なんてちっぽけなんだろう。こんなに小さな世界が、おれの全てになるなんて。

 頂には──敢えてそう呼ぶ──炭化した埃が積もっていた。それでも城の内臓よりは遥かにまともだったし、即席のプレハブ小屋を取り巻く奇跡的な緑化も進んでいて、犬が平然と彷徨っているのも、それに吠えられるのも、呑気な風景といえる。

 そして、ここにもっとも意義を感じたのは、薄い霧の向こうに浮かぶ故郷が見えたことだった。たった一本の橋で隔たれたそこは、遠くて近い外国を見ているようだ。郷愁がないといえば嘘になる。そんなことを考える間もなく、十七年に渡って築き上げた絆も思い出も、なりふり構わず捨ててきたのだ。

「父さんは、おれたちが大事だった……?」

──妾の子!

 母さんと三人でずっと一緒に暮らしてきたのに。いつも幸せだって言って……。

「ひどいよ」

 父さんの籍におれたちがいないことを知らなかった。考えたこともなかった。なんの疑問もなく暮らしてきたのに、どうして置き去りにしたんだろう。

──ひどい……。

 おれの部屋で垂れ下がっていた父さん。どうしておれの部屋で。どうして、どうして、どうして!

 無限にループする疑問は永遠に癒えない。答えの出ない疑問を抱えて生きることは地獄に近いと、気づいてくれなかったんだろうか。

「疲れた」

 風が吹く。微かに漂う潮の香りが、おれの髪を愛撫していく。これは母さんの手だ。髪を撫でる柔らかな指先。それは子供の頃の記憶を呼び覚まし、目蓋の裏に三人で暮らした真っ白な天井を映し出した。

 吹きさらしの頂から地上を覗き見るのは簡単だった。小さな冒険者の格好の遊び場となるわりには無防備で、棟の隙間に網が張られていても人間の落下を防止できるほど頑丈ではなさそうだった。ただのごみの受け皿。それ以上の目的はないに等しい。

 中層階から突き出たトタン屋根には干からびた蜜柑の皮が落ちていた。それに沿うようにして、色褪せたごみ袋も点在している。きっとそれらは朽ち果てるまで在り続けるのだろう。

 おれは手にしていたマスクを放り投げた。

 それは左右に弧を描きながら風に乗って旋回した。まるで鳥の羽根のように優雅で、華麗に。終いには蜜柑の皮の上に丁度よく覆い被さり、面子のようにひっくり返った。

 笑った。臍の奥を破り、膿を絞り出すように腹を抱えて。あまりにも長く笑いすぎて、何を笑っているのかわからなくなった。おれはただの道化だった。自分の存在を確かめようとしながら他人を傷つける偽善の道化師。

「あーあ」

 両手を囲いに添えていたせいで、手の平は墨を塗ったようだった。軽く柏手を打ち、おれの指紋付きの手形を眺める。ついで、その上に片方の靴底を乗せると、奇怪なほど心臓が高鳴り始めた。おれは自分を支配しているという高揚感を味わい、両手を開けば何でもできそうな錯覚に陥った。

──このまま自由に飛べたら。

 囲いの上に両足を乗せ、ゆっくりと立ち上がった。膝頭を揺さぶる震えが心地いい。見慣れた景色が眼下になり、住人たちもただの米粒へと変わった。間違いなくこれが、ごみの城の頂。しかし、虚ろな空はなにも変わらない。今ここで飛んだとしても、おれは死に、ごみの一部になるだけだ。

 背後から子供たちの声がした。そろそろ冒険者の占領が始まる。

──残念だな。

 そう思いながら囲いを下りると、置き去りにした鞄を掴み、足早に屋上を後にした。

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