見出し画像

猫の十字架/4.接点

 今までのおれは、やる気なんて気持ち一つだと、歯を見せて笑う清廉潔白な「若者」だったのだと思う。実際にそれでなんとかなったし、これからも不動なのだと思い込んでいた。でも、十七年目にして舐めた自己陶酔なのだと気づいた。この鼻腔に貼りついた粘性の臭気。それはおれのやる気を簡単に削いだし、そのうえ、初対面の隣人に謂れのない敵意を向けられたことで、微々たる前向きとやらも尽き果てた。

 そんな夕暮れ時。隣人に挨拶まわりをするのだと意気込んでいる母さん。あの子のことを話したからか、一目会いたいと手土産を準備していた。

 それは本島の焼き菓子だった。あの騒動の最中によく気が回ったものだと感心したが、母さんなりの気構えがあったのだろう。これが、新しい世界で生きていくという覚悟の証だと感じた。

「祐ー、あなたも行くのよ」

 どんなに背中を押されても気がすすまない。それ以前にこんな古風なしきたりを望むとも思えなかったし、なんといってもあの敵意に立ち向かう余力が残っていなかった。でも、母さんを一人で行かせるほど非情にもなれず、ここは自分を奮いたたせることにした。

 隣人宅にはドアベルがなかった。正確には不自然に壊れている。それならと、扉は節度をもって叩いた。しかし、いくら待っても返事がなかった。

「留守なんだよ」

 これで引き返す言い訳ができたと、おれは内心安堵していた。でも、念には念を入れ、というのか、母さんは密やかな声掛けを加えた。

「こんにちは。隣の葉山と申します。本日はご挨拶に参りました」

 すると、魔獣のような地響きと共に、扉が勢い良く開いた。その怒涛の風圧におれたちも仰け反った。

「誰」

 そこに立ちはだかっていたのは、とぐろを巻いた邪気を全身から噴射した女だった。水浴びをしたのだろう、縮れた髪は湿り、堂々と晒したシュミーズ姿もそれ相当の破壊力があった。当然、あの子じゃない。おれの直感にすぎないけれど、このおばさん──あの子の母親だろう──は、人生の中で関わってはいけない人物だと感じた。

 一方の母さんは芯の強さが露呈するほどの真顔だった。そのうえ、「葉山と申します。どうぞよろしくお願いします」と頭を垂れ、そっと手土産を差し出した。

 おばさんの鮫のような目は、母さんを捉えたまま微動だにしなかった。そうかと思えば「気が利かないね!」と、いきなり咆哮して菓子箱を乱暴に毟り取った。

「なんだ、これ。こんな物は何の役にも立たないね。ごみだ、ごみ!」

 煙草をこれ見よがしに咥え、包装紙を乱暴に引きちぎった。外蓋を邪険に放り投げる姿はさながら闇に取り憑かれた閻魔。

「おばさん!」

 おれも黙ってはいなかった。でも、母さんは「やめなさい」と言って横から押さえた。どうしてだろう、こんなことをされても平気なのかと憤慨したが、それは違った。おれだけに向けた一瞥には、小さくとも力強い炎が宿っていたのだ。

「お嬢さんに、と思いまして」

 母さんは顔を上げた。決して女の所業を受け流しているわけではなかったのだ。むしろ、静かに挑んでいる。

「娘ぇ?ふん。こそこそと嗅ぎまわりやがって」

 それに応えたおばさんは箱をひっくり返した。ボトボトと雪玉のように散乱する焼き菓子をご丁寧に蹴散らす。母さんはそれを黙々と拾い集め、指先で挨を払った。

「もういいよ。帰ろう」

 これ以上は見ていられないし、こんな姿も見たくない。

「なんだよ、その目は。え?」

 不意に矛先が変わった。女の死んだ眼がおれを追う。

「生意気な坊主。礼儀を知らないのは親の教育がなってないからかねぇ」

 そう声高に謳い、煙草を悠々と吹かした。

 血が一気に煮沸した。でも、悔しいかなおれの頭は瞬間湯沸かし器ではない。細胞がふつふつと泡立つのに対して、脳には溶けた真っ白な空洞ができる。

「申しわけありません」

 その間も頭を下げるのは母さんだった。おれが息巻けばもっと傷つく。このおばさんはそれを承知で攻撃してくる、まさに隣人という名の怪物だった。これからだって、どんな難癖をつけてくるかわからない。

 そこへ、あの子が現れた。「なにやってんの!」と、目を白黒させ、同時におばさんの肩を小突き、家の中へと押し込んだ。

「こんな格好で人前に出ないでよ、恥ずかしい。奥に引っ込んで!」

 彼女はおれたちの前で扉を閉めると、背中で強く押さえた。まるで、地獄の穴に蓋をするように。背後からは怒号が響き、蹴りの震動で大地が揺れた。それを全身で受け止めながら、母さんに対して恥じているような心もとない視線を向けた。それはおれをこの上なく狼狽させた。

「初めまして。葉山泉と申します」

 母さんはあの子に対しても丁寧なお辞儀をした。それが異質に映ったのかもしれない。あの子は軽く腕を組むと、視線を外したまま呟いた。

「さ、冴木……冴木、輝美」

 その姿に愕然とした。おれのことなど忘れ去ったのかもしれない。いや、この場合、視界に入っていないと言っていい。とにかく、慣れない挨拶を幼子のようにする彼女は、別人かもしれないと思った。

「この子は息子の祐ーです。高校二年生なの。今は息子と二人きり」

 母さんは棒立ちになったおれに礼を促した。

「男の子だけど仲良くしてやってくださいね。よろしくお願いします、輝美さん」

 彼女は顎をあげ、たちまち瞳孔を開いた。明らかにおれに対してではなく、母さんに対して。そして、前髪の隙間から見違えるほど可憐な煌めきを放ち「あのさ、あの」と、言葉を絞り出した。

「うちと関らない方がいいよ。わかったと思うけど……」

 そんな言葉に対しても、母さんは小動物のように笑った。

「もっと実用的なものが良かったかしらね。洗剤とか、タオルとか」

 二人はおれを置き去りにして微笑み合っていた。

──こんなふうに笑える子だったんだ。

 もし、母さんの存在がテルミちゃんの救いになっているとしたら、それが微々たるものでも、いつかおれの救いになるかもしれないと感じた。

「それ、ください」

 彼女はいきなり焼き菓子を指して言った。

「でも、ここに落ちたものだから……」

 泥だらけの地面を横目で流し、母さんは軽く苦笑した。

「落ちただけだよ。そういう過剰なの、ここじゃあ嫌みだから」

 確かに個別包装された菓子はいかにも本島らしい食べ物だった。

「じゃあ、貰ってください。味はいいと思うのよ」

 テルミちゃんは両手ー杯の菓子を受け取り、バターの香りを嗅いだ。そんな姿は愛らしく、口元の痛々しい傷も心なしか和らいで見えた。

「輝美さん、いつでもうちに遊びに来てね。お友達が欲しいわ」

 ひと心地ついたところを見計らって、母さんは手を振りながら去って行った。おれの肩を軽く叩き、全てを任せて。

 やはりテルミちゃんは、あのテルミちゃんだった。彼女の周囲には瞬く間に鉄壁が聳え立ち、おれに立ち入らせまいと威嚇してくる。なにが気に障るのだろうと思いつつ、彼女の中に細い糸を見つけた今は、いつか繋がるかもしれないという希望が芽生えた。

 その希望はおれの最悪な人生に何かしらの光を与えるだろう。例えそれが、おれをとてつもなく変えたとしても、今以上に後悔することはない。

サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。