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猫の十字架/2.余所者

 おれは孤島の桟橋に立ち、ごみの城を見上げて絶句した。

 島に蔓延る高層の森。饐えた潮風に晒されたそれは、不規則に塗り固められた増築のつなぎ目と共に小波の色彩を持っていた。

「すげえ」

 さながら秩序のないブロック遊び。柵に覆われたバルコニーが印象的で、そこにはためく洗濯物が畏怖すら抱く高層住宅に味わいを添えていた。

 おれが興味を持ったのは上層階と下層階の格差だった。屋上には時代錯誤の文明を象徴するアンテナ。下層のバラックには店看板のごった煮。饅頭、乾物、食堂、金物、視界に収まりきらない長屋はどこか懐かしく、戦後の過渡期を彷彿とさせた。

 これが巨大コミュニティーの礎、噂の闇市だ。本島の連中はこぞって馬鹿にしていたけれど、内心は羨望もあったはずだ。祭りの露天に心躍る遺伝子。それを持ったおれたちが、泥臭い生命力に高揚しないはずがない。

 その一角にある不動産やで話しこんでいる母。相手は本島からの移住者専門業者だという。硝子越しでもわかるほどの胡散臭さだけれど、それを承知で居場所を求めるのだから、おれたちもどうかしている。

 海鳥が鳴いた。こうしていると昨夜まで本島にいたのが嘘のようだった。持てるだけの荷物を持って、身一つで夜逃げしてきたおれたち。受け入れてくれる場所があるだけ幸せだと母さんは言っていたけど、そんなに単純なものだろうか。このごみの城を目の当たりにした今でも──同じ気持ちでいるのかな。

「ようこそ、坊っちゃん」

 おれは歯が鳴るほど飛び上がった。道化師さながら踊りだしてきた小男が頬のぜい肉を揺らして笑っている。その前歯は溶け──今時、トルエンだろうか。間違った。今でもトルエンなのだ──大柄なプリントシャツも、折り目のついたベージュのスラックスも、どこか時代遅れだった。

「祐一、この方が案内してくださるわ。行きましょう」

 母さんは相変わらず聖母のような微笑を浮かべていた。俵のような鞄をたすき掛けにして、両手に厳ついトランクを持っていても、どこか浮世離れしている。あんな目にあったのにどうして笑っていられるのだろう。母さんに関しては摩訶不思議なことだらけだ。

 案内人は常におれたちの前を陣取った。スキンヘッドに彫った梵字の刺青が自慢なのか、時々振り返ってはおれの視線を確認している。生々しい体臭と過剰な香水がぶつかるのも遠慮したい気分だったし、猿のような得意げな口調も心なしか神経を逆撫でした。

「入り口を間違えたら迷宮入りね。よく覚えてよ。はい、ここ。中央一番街」

 次いで壁に書かれたペンキ文字を指し示し、四つ折りにした地図を差し出すと、指先でトントンと叩いた。

「まず、自分の居場所を知ることね。ここで生きたきゃあ、こいつの腹ん中を把握すること」そして「ね、坊っちゃん」と、粘りのある笑いを浮かべた。

「助かります。どうぞ、よろしくお願いします」

 横では深深とお辞儀をする母さん。こんなふうに誰に対しても公平な態度は尊敬する。でも、時々純粋すぎると思う。

「あんた、気をつけてよ」

 すると、男の顔が忽ち醜悪に歪んだ。睨めつける視線は道化師から一転して、どぶ川の端に溜まったコールタールに似ていた。

「あんたみたいなタイプ。ここじゃあ<悪>ね」

 唇が器用に捲れ上がった。

「私が、ですか……?」

 母さんは整えた眉を寄せ、唇を真一文字に結んだ。しかし、男は関係ないとばかりに、あっという間に身を翻してしまった。

「待って。<悪>ってなんですか!」

 おれは中央一番街に突入していくプリントシャツを追った。

「そのうちわかるね」

 足下がぴしゃりと鳴った。ちょうど、薄闇の境目に片足を置いた時だった。

──まさか、これが一番街。

 おれは自分の目を疑った。棟と棟の間にできた僅かな隙間を通り道と称し、メインの人道として住民がひっきりなしにすれ違っている。無数の排水管を天井替わりにしているその上にはビニールシートが張られ、ささやかな陽光さえ遮っていた。

「場所によっちゃあ、傘が必要ね」ケケケと、男から明瞭な笑い声が漏れた。

 それは目の錯覚であって欲しかった。ブルーシートの亀裂から滴る魔の水滴が、一滴また一滴と管を伝っては雨垂れている。そこから粘度の高い臭気が生まれ、おれたちの五感を汚泥へと埋めていった。

「これ、なんですか……」

 知ることすら恐ろしかった。でも、これは避けて通れない道だ。おれはひたすらそう言い聞かせ、腹を括って尋ねた。

「上層階の連中は、ごみを投げ捨てる習慣があるね」

──ごみ……?

 男の指が天を貫いた。それはビニールシートの裂け目を指し、そこから顔を覗かせている白いごみ袋を指していた。

「坊っちゃん、ちゃんと周りを見て覚えないと」

 そんな余裕など微塵もなかった。目が慣れるほど正体を現したのは、シート上に堆積したごみ。信じられないことに水滴の源は、それらの狭間からだった。

 拳で頭を殴られたような感覚に危うく意識が薄れそうだった。そのせいなのか中央に近付くにつれ色濃くなる漆黒にすら気付かなかった。

──これが、ごみの城。

 ケケケ。案内人は間違いなく楽しんでいた。移住者専門なのは絶望を味わう者の顔が見たいが為なのだろう。

 それからは暗黒の迷路が続いた。不規則な坂道や階段を乗り越え、到達したのはネオンが光源となった路地裏。それら如何わしい明りが軒を連ねる闇の中で、ようやく母さんの顔を見た。

 父の葬儀でも矢面に立たされた時も、この地を踏むと決めた時でさえ弱音を吐かなかった母。そして今でも精一杯の笑みを向け、おれを励まそうとしている。

──あんたみたいなタイプ。ここじゃあ<悪>ね。

 それがかえって胸騒ぎを誘い、即席の微笑を返すしかなかった。

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