猫の十字架/8.くだらないもの
は・や・ま・し・ね・!
た・の・む・か・ら・!
──なんだ。名前は覚えてるんだ。
おれは教室の机に油性ペンで書かれた文字を見下ろしていた。ごみの城も本島もやることは同じ。人間の根本に横たわるものは変わらないし、こんなことを喜びとする連中が居る場所に通う意味がどこにあるのだろうか。
笑える。何を笑うかって、自分を。だから笑ってやる。精一杯の侮蔑を込めて。
「おい……」
四方からの視線がおれを刺した。反応を待つひそひそ教の奴らが、一挙手一投足を檻の中の動物を見る目で眺めている。こんなことでおれが泣き出すとでも思っているのか。くだらない。もっと早く見限っておけば良かった。自分も、奴らも。
思いきりボストンバックの中身をぶちまけてやった。教科書もノートも筆箱も。最後に折りたたみナイフが机を跳ね、軽快な音を立てて床に落ちた。
連中はその異質な反響を敏感に察知した。無関心を決めていた奴でさえ、顔を上げて身を乗り出す。
おれは鞄を放り投げ、まるで砕けた心の欠片を掬い上げるように、冷えたナイフを拾った。これで奴らを脅したい訳じゃない。虚勢をはるつもりもない。今のおれに寄り添ってくれる唯一の友、おれの一部、おれを表す無機質の塊だ。
連中は刃先を見ると同時に悲鳴をあげた。まさか<おれが>と言いたいのか、それともそれを振り回すとでも思っているのか。とにかく全員が席を立ち、教室の壁へと貼りついた。なんて情けない連中だろう。本当に……。
「くだらない」
おれはそれだけを持って教室から飛び出した。こんな場所に二度と戻ることはないだろう、と思いながら。
それからは背中を押されるようにひた走った。ポケットに忍ばせたナイフを生地の上から探りながら、敢えて見知らぬ路地裏を走り抜けた。階段を上り、そして下り、幾十の棟の繋ぎ目を越え、水溜りを蹴り、配線にぶち当たり、迷宮の奥深くに嵌まり込んでしまった。
込み上げる咳と同時に立ち止まった。気が遠くなるほどの長屋を両袖に感じながら、磨り硝子から漏れる乏しい明かりを頼りに見回した。そして、今さらながら背筋が凍えてしまった。
辺りには直感した以上に人がいた。わずかな段差に座り込んで<空>を見ている者たち。彼らの手元には注射器が転がり、中には腕にぶら下げたまま、器用に眠る者までいた。もし、ここに屍体が混ざっていたとしても、誰も気にとめることはないだろう。
馬鹿なことをしてしまった。ここは迷い込んではいけない場所。死よりも恐ろしい末路が待ち構える、まさに<魔窟>と呼ばれる区域。
──入り口を間違えたら迷宮入りね。
あの不動産屋の粘りのある笑いが脳裡に浮かんだ。
──ね、坊ちゃん。
それは相変わらず神経を逆撫でし、おれの選択をあざ笑っていた。
──ちゃんと言ったよね。ね、坊ちゃん。
「うるさい」
──自分の居場所を知ること。そう言ったよね。
「だから、黙れよ」
──これで坊ちゃんも終わり。
男の唇がめくれ上がり、四つ折りの地図を指先で叩く。
「ちが……違うって……」
本当に違うのだろうか。この亡者たちのかすれた唸り声を聞いてもなお、間違っていないと言えるのだろうか。
──ここで生きたきゃあ、こいつの腹ん中を把握すること。
そうだ。まずは落ち着くべきだ。毎日、地図を頭に叩き込んだ結果、おれなりに出した答え。
「全ての道は必ず中央広場に繋がる」
寂れた麻雀荘の前で立ち止まった──この期に及んでおれの足は無意識に迷宮を進んでいた──そして、心の拠り所であるナイフに触れた。
ストリップ小屋の壁沿いには、吸煙具を咥えた男たちが座り込んでいた。干からびた両腕が、シャツを着た駝鳥の脚に見える。
「お兄さん、安くしとくよ」通りすがりに薬を差し出す男。「ちょっと子供じゃないのぉ」と、やにわにおれの肩を掴んだと思えば、身を引き離す女たち。煙草と麻薬とドブの波に酔わされ、忽ち目が回った。
闇の中を徘徊する虫たち。おれの目にはそう映った。膝が小刻みに震え始め、立っていられない。地面も壁も何もかも絵の具のように混ざりだし、割れた看板に頭をぶつけてしまった。
すると、脇道から声がした。
「あんたさあ、殺されるよ。そんな歩き方してたら」
強い草のにおいが押し寄せてきた。誰かがおれの腕を掴み、非常階段の裏へ引きずり込む。危うく相手を殴りそうになったが、次いで覆い被さる甘たるい香りで、それが女性だと分かった。
「びっくりした?」
彼女はそう言って手を離し、けたけたと無邪気な笑い声をあげた。
おれは幻を見ているのかと思った。微かに届く蛍光灯の明かりがその顔を映し出す。胡桃のような目を強調する長い付け睫毛。目尻のラメが光を呑み、艶めきでおれを縛った。
「あんた本島の人間でしょう。分かるんだよねぇ、においで」
化粧のせいだろうか。幾分年上に見える。でも、ここに居ることが不自然なくらい、まだあどけない表情をしていた。
「なんでここに居るの。女を買いに来たの。それとも……自殺?」
その一言に動悸がした。自殺なんかじゃない。おれはそんな馬鹿げたことはしない。
「なんだ、図星だったんだあ」
「違う」
彼女はいきなり恋人のようにしなだれかかり、身体をよじりながら笑った。鼻にかかったハスキーボイス。心地良ささえ感じるそれを邪険にすることもできず、とうとう人形のように降参してしまった。
「中央広場に出たくて……」
じくじくとこめかみが痛んだ。
「なるほどね」
まるで旧知の友のような返しだ。でも、馴れ馴れしさを感じながらも不快ではない。むしろ、この島にも本島を目の敵にしない人間がいたことに安堵した。
彼女は小さなポーチの中から歪な形の<煙草>を取り出し──再び草のにおいが立ちこめた──「教えてあげるから、まずは落ち着きな」と、火をつけた。
より一層の刺激臭がした。これも、ただの煙草じゃない。だけど、横で平然と吸い始める彼女に対して、まったく嫌悪感を抱かなかった。もしかしたら、今のおれはどうかしているのかもしれない。
「吸う?」
「いい」
そんなやり取りは呆気なく、赤の他人だからこそ慣れ合える奇妙な関係性ができあがった。
「一服だけだよ。落ち着くから。それから教えてあげる」
馬鹿みたいだけど、くだらないけど、泡の中にいるような微かな安らぎを感じた。
「わかった……」
差し出された作りの荒い巻き煙草。抵抗がないと言えば嘘になる。だけどそんな罪悪の糸は、綿飴のように溶けていった。
それはちりちりと音を立てた。思っていた以上に草の味がきつく、あっという間に煙と共に吐き出してしまった。
耳鳴りがした。細く響く笑い声。足下がふわりと浮き上がり、途端に五感が破裂した。
──眩しい。
煤けた光ですら直視できず、幾重ものモザイクが攻めてくる。
揺れる、揺れる。おれの芯がバネに変わる。あははは。もしかしたら、そんな風に笑っているのかもしれない。
「ちゃんと教えてあげるね」
彼女の唇が耳たぶに触れた。
「蛍光灯を辿っていけばいいだけ。簡単でしょう」
──なんだ……。
微かな吐息ですら嵐のように響き、頬に鳥肌が立った。
「まだ行かないで」
彼女はいきなり声を荒げた。おれの襟を掴んで軽く揺すると、胸元に顔を埋めた。
「あたし、寂しいんだ……寂しいよお」
今なら重い昂揚も愉快だった。唇を痛いほど吸われることも、甘美で柔らかな戯れ。
「ねえ、ねえ……」指に挟んだ<煙草>をもみ消し、彼女は軽く頬ずりをした。
「あんたさぁ、いい男……」
抵抗をしなかった。シャツのボタンを外されようと、どうしようもなく温かな指先が下に落ちていこうと。
──気持ちいい。
こんなどうしようもない場所で、身も知らぬ女性に対してどうしようもなく欲望を感じている。
「あんた死ぬつもりだったんでしょ……それならあたしを記憶の中に残してよ。あんたの記憶の片隅に……あたしの感触だけが残るの……」
死……?おれは死なない。父さんのように惨めに死ぬことだけはいやだ。母さんを一人残して……。
──母さん……。
でも、もしおれがいなかったとしたら、母さんはもっと幸せになれたかもしれない。妾の子。父さんとの間におれがいなかったとしたら……。
「なにこれ」
彼女はポケットから探り出したナイフを見て困惑した。そして、おれの顔に視線を移し、しばらく絶句すると、いきなり笑い出した。
「なに泣いてんの?ばっかじゃない!」
──そうだ、くだらない。おれが。おれが。おれが。おれが。
このまま堕ちていくのだろうか。どこまでも、果てしなく……。
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