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猫の十字架/3.歯車

 その日は朝から霧雨が降っていた。ベッドの上段で手鏡を覗き込んでいたあたしは、立ちのぼる湿気混じりの臭気に辟易していた。

 ビンさんのおかげで腫れこそないものの昨夜の悪夢を思い出すには十分で、今夜の仕事は控えるべきかと舌先で唇の瘡蓋を突いた。おまけにアスピリンもすっかり子供騙しで、あたしを楽園に導いてくれるものは何一つなかった。

 ダン、ダン、ダン。

 まさに日課が始まった。これは上階の裁断機の音だ。住居と工場の垣根がないコミュニティーにおいて、騒音に関する諍いは絶えない。ただ、運が悪いのだ。住民たちはそうやって折り合いをつけ、諦めに似た境地の中で別の逃げ道を探す。

「うるさい」

 躾の悪い片足が天を蹴った。そうしたところで何かが変わるわけでもなく、床に放置された煙草に漫然と火をつけた。

 ベッドの下段は蛻の殻だった。水を含みすぎた半平に似た布団が、恨めしくあたしを見ている。主は今日も戻らない。そんな泡沫のひと時に嬉々として浸りながら、ちりちりと燻ぶる草の音に耳を傾けた。

 しかし、寸分違わぬ絶望というタイミングを扉の向こうで謀っていたのだろう。そんな才能を持った<女>が帰ってきた。

「テルミ!」

 ガンガンガン。

「テルミー!」

 ガンガンガンガン。

 剥き出しの壁に伝わる安っぽい金切り声。スチール製の扉を打ち、あたしが苛立つのを承知で向かってくるその根性。あの計算されつくした化け物は今に恥ずかしげもなく吠えるだろう。自分が母親だと。

「開けろぉ!」

 グワーングワーン。

 そこに蹴りが加わった。あたしに蹴り癖があるのはあの女の血だと思うと発狂する。

「自分で開ければ!」

 煙草をもみ消し、こめかみに浮き出た血管を両手で塞いだ。

「鍵をなくしちゃってさあ。早く開けろぉ!」

 きっと喉から砂嵐を吐き出しているのだろう。笑い声すら首を絞められているのではないかと錯覚する。そのうえ一種の危機感を抱いた。明らかに聞き慣れない声音が混ざっていたのだ。きっと錆びついたザルに引っかかった男を懲りもせずに連れ帰ったに違いない。

 あたしは無言で忍び寄り、扉を飾る唐草模様の通気口から、乏しい光に照らされた廊下を覗いた。

 それは見るもおぞましい光景だった。崩れ折れた母の脇腹に腕を回している千鳥足の男。濁った白目を血走らせ、だらしない笑みを浮かべて夢想している。それはまさに、アルコールの黴を撒き散らす死人。

 扉に凭れた二人は解錠と共に雪崩れ込んできた。玄関に倒れた母のスカートは腿までめくれ、肉割れた脂肪の線が露わになった。

「ちょっと、しっかりしてよ!」

 すると、男の目がいきなり返り、燦然と輝いた。あたしの二の腕をくるくると舐めまわしながら、淫獣のような涎を垂らし始める。

「そうかあ……これがテルミちゃんかあ……」

 だらしなく身を起こそうとする男に、あの女は「ねえ」と、鼻にかかった無残な声ですがりついた。

「おい、勘弁してくれよぉ」

 ぐずる手をさも困った風に剥がし、あたしに舌舐めずりをしてみせる男。一方で、女を誇示しては若さに嫉妬する母。

──なんなの、こいつら。

 見事な茶番だった。正視は地獄に近く、駄々っ子のような母を無理に引き剥がし、達磨のごとく転がした。

「それが母親にすることがあ」

 仰向けで四肢をばたつかせ、恥じらいもなく喚き散らす。

「冷たいい。あたひは不幸らあ。はんたを産む前は幸せらったのにぃ」

 出た。これが決め台詞。これを言いたいが為に遠まわしなパターンを飽きもせずに繰り返すのだ。

「つぐなえぇ。腹を痛めて産んでやったのに。永遠につぐなって生きろ!」

 この女の望みはあたしがボロ雑巾のように傷つくこと。一粒でも涙をこぼせばきっと満足なのだろう。でも、あたしは抗い続ける。これからもずっと。

 「好きであんたの子供になったわけじゃない……」

──売女!

 不意に鼓膜の奥で何かが鳴った。未だ昨夜の狂乱の欠片が暴れているのだと思った。しかし、そうじゃないと気付いた。これは<あの日>から染みついて離れないこの女の憎悪。

 鼾が始まった。役目を終えた気になったのだろう。女は暴れ疲れた四肢を広げ、大の字になって眠った。

 唇の皺に残った赤い口紅。年の割に老けた肌。こうやって無防備に鼻を鳴らし、自分のことも、あたしのことすら忘れ去るのだろう。いつものように。

「テルミちゃんも大変だねえ。あらぁ、どうしちゃったの、この痣。綺麗な顔が台無しだよ」

 つけ入る隙あらば忍び寄る指先。この場で、この空気感で、どの口があたしに汚れた言葉を吐くのだろう。

「痛いの、痛いの、とんでい……」

「出て行け!」

 男が尻もちをつくまで力の限り突き飛ばした。両脚を天に向けた姿が意外に滑稽で笑いを誘う。

「なんだ、その態度はよお!誰がこいつを連れて帰ってやったと思ってんだ。礼ぐらいしろお!」

「出て行け!」

 更に尻を叩けば、あっけなく逃げ帰った。女のように情けない悲鳴をあげ、這うようにして。

 まるで喜劇だと思った。なにもかもが馬鹿みたいだ。たまにはまともな大人に巡り会いたいと願うことが、そんなに高望みだろうか。

「あの、大丈夫、ですか?」

 そこに突如として、寂寥を凌駕するほどの初々しい声が差した。その不意打ちに、思わず素っ頓狂な息を吐いてしまった。

 振り返れば、廊下に山積みになった段ボールと真新しい冷蔵庫が幅をきかせていた。そんなことにも気付かなかったのかと、我ながら舌打ちをした。しかし、問題なのはそれらの隙間から茶褐色の目が凝視していたことだ。こともあろうにこの茶番を、一部始終観劇していた者がいたのだ。

 新しい隣人だ。越してきた早々に、あたしたちの恥部を見た幸運な男。

「大丈夫、ですか……?」

 空気を読む、ということを知らないのだろうか。まともな神経なら見て見ぬふりをするのが相場だろうと、挨拶がわりに「見るな」と、言ってやった。

「すみません」

 さも気まずそうに視界から消えていく茶褐色の瞳。あれが目で語るというものなのだろう。放っておけば今にも続きを喋りだしそうだった。

 玄関では母が大の字になって眠っていた。それを物のように跨ぎ、服を着替え、台所の蛇口から出る糸ほどの水で顔を洗った。ついでにアスピリンをもう一粒噛むと、トイレに行儀よく並んだバケツのうち、二つを持ちだした。

 これからが本格的な朝の儀式だ。歪な階段のみが移動手段の高層住宅では、毎日大渋滞が起きる。この時間帯はとくに忙しなく、通学中の子供たち、集会所に向かう老人、家事に奔走する女たちが道を譲りながら行き交う。それに加わるのは面倒ではあったが、社会の支柱になった気がして嫌ではなかった。

 共同給水場。毎朝、ここで水を汲むのが習慣だった。広大なコミュニティーに三か所しかないそれは、組合費を払う者だけが使うことを許されている。それ以外の者はどうするか。濁った井戸水を使うしかない。

 ここは住民の社交場になっていた。さして広くない空間で、洗濯や皿洗い、行水をする者たちが情報交換という名の井戸端会議をしている。そのほとんどが他人を貶めて劣等感に蓋をする、卑しい典礼だった。

 当然、あたしには無縁であり、群れを見るだけで悪寒が走った。だから誰とも関わらない。むしろ、あたしを空気だと思って欲しい。でも、彼らの臭覚は異常に発達していて、いかに異端者を嗅ぎ分け、網を張るか。その為に日々、進化しているように思えた。

「テルミちゃん。組合費が溜まってるって、あんたの母さんに言っといてよぉ」

 油断していた。彼女たち洗濯女に捕まるほど最悪なことはない。今まさに、渾身の芝居が始まろうとしている。

「残念だけどさあ、このままじゃあ水をあげられないってね」

 組合とは名ばかりで、井戸の所有者から金と引き替えに権利をまきあげたと言っていい。

「母さんが男と呑んだくれてさあ、あんたも大変だねぇ。あたしらも気の毒だと思ってんだよ?」

 女たちは顔を見合わせ、示し合わせたように頷いた。

「娘を高校にやらずに働かせてさぁ、可哀相に」

 次にケタケタという身震いする笑いをもらした。

──可哀相?

 これは飾り言葉だろうか。中年女はどうして意味もなく笑うのだろう。でも、その意図は分かっている。息を吐くのと同じように惨めな言葉を並べたて、哀れな羊を餌に優越感に浸りたいだけなのだ。常に自分を底上げすることに必死で、不幸の種を探しまわっている。

「苦じゃないので。組合費はあたしが払います」

 洗濯女たちはたちまち怯んだ。反論というものに対してめっぽう弱い生き物らしい。とにかく優越感を奪うこと。これで、復讐は完了した。

 そこに、純白の<鶴>が舞い降りた。あたしの目がおかしくなったのだろうか。違う。この腐り果てた泥の地上に、人間の姿をした鶴が前触れもなく迷い込んできたのだ。

 たちまち給水場の時間が止まった。一様に口を開いた住民は、黄金色の後光すら煤けて見えるほどの透明な女性を直視した。そんな百の目に見つめられ、鶴は入り口で立ちすくんでいた。

 しかし、Tシャツにジーンズという簡素な出で立ちで覆い隠しても、内から溢れ出す品と洗練された空気感は、ここの者がどんなに逆立ちをしても真似できない。染み一つない肌、艶のある唇、どこをとってもその素顔は女としてのプライドがあった。それは間違いなく、本島の人間を表していた。

 彼女はようやく歩き出した。バケツを握り直し、俯いた顔を上げ、背筋を正して嫉視に耐えていた。一方で、男たちは我先にと色めきたった。しょぼくれた老人には生命が宿り、体中に血が漲った。それに反して洗濯女たちの目には鬼気迫る嫉妬心が浮かんでいた。

 痛快だった。あの女性は洗濯女たちが手を伸ばしても届かない場所にいる。現実を突きつけられるのがどんなに惨めで残酷か。所詮は同じ穴の狢だと、思い知ればいい。

 あたしの足どりは俄然、軽くなった。両手にバケツ一杯の水を抱えていても、足場の悪い階段に噎せても、あの女性の凛とした姿が力を与える。ここに高潔な人間が居た。その昂りは、生まれて初めて他人に近付きたいという欲求を与えた。

 廊下にはまだ冷蔵庫と格闘している隣人がいた。大仰なマスクをつけ、ああでもないこうでもないとあくせくしている。しかし、あたしの存在に気付いた途端、冷蔵庫から一度手を離し、軽快に会釈をしてみせた。

 まさか、隣人として関わろうとしているのだろうか。それが余計なお世話だというのに。隣人とはいつか周囲を嗅ぎまわる犬に変貌するものだと、あたしは思っている。

 とにかくここはやり過ごすことにした。隣人の存在などないかのように、扉の前に直行した。それでも好奇心旺盛なマスクマンは鍵を探す手元まで注目している。なにかしらの言葉をかけようと機会を狙っているのだろう。いや、隙は見せない。絶対に。

「こんにちは。あの、昨日、隣に越してきた……」

「聞くつもりはないから」

 ほら、きた。でも、最初から期待を持たせない。これはあたしなりの親切だ。

「え、でも、あの……」

 まだ食い下がるつもりだろうか。部屋の鍵という物は、こんな時に限って紛失するようにできている。

「だから、知る気もなければ教える気もない」

 あたしが拒否しているのがどうして分からないのだろう。まるで真正面から水鉄砲を食らったかのような顔。それが余計に苛ついた。あたしにもあたしなりの都合があるのだ。

 やっと鍵を掴み、せっかちに扉を開けた。扉の隙間に片足を突っ込み、背中から要領よく滑り込む。これが両手にバケツを持っていても、ものともしないコツだ。

 だけど、扉がいきなり羽根のように軽くなった。男に視線をやると、扉を澄まし顔で押さえていた。どうぞご自由にお入りください、と言わんばかりに。

 ああ、まさに親切の押し売り。感謝しないはずはないと思いこみ、紳士ぶった態度を平然と見せつける。

「どういうつもり!」

 あたしは烈火のごとく叫んでいた。

「こんなこと、何年も、毎日繰り返してきたの!」

 そう、高熱の日も、重い生理の日も、どんな時も誰の手も借りずにやってきた。それを、今たまたま居合わせただけで親切心をみせた気になっている、その性根が気に入らなかった。

「自分でできる。放っといて」

 隣人は完全に言葉を失っていた。構わない。しげしげと頬の痣まで見ているようなデリカシーのない男だ。このうえ、同情をするつもりなのだろうか。

 あたしは玄関に入ると、後ろ手に扉を閉めた。

 微かな隙間から、寂しげな茶褐色の瞳が覗いていたとも知らずに。

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