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紅い月がのぼる塔/20.絡み合う糸

 マヤは広間のバルコニーを開け放ち、吹き込む霧雨の匂いを浴びた。潮風と濃厚な磯の香りを纏ったそれも、今朝だけは湧き水が指の隙間を流れる心地よさに似ていた。

 薄雲を透かす太陽の恵みが眩しい。今頃レンはこの濃霧の中で、門の彼方に思いを馳せているのだろうか。

 胸に刺さる小さな破片を払うように、バルコニーの扉を閉めた。

──ぼくは、あなたが……──

 軽く触れた口づけの後、モリは言った。南海に沈む砂の色をした真っ直ぐな瞳。燃える赤毛。繊細な顔立ちの奥に隠されていた意思の強さが、マヤの心を離さない。

 彼はそれだけを告げると、木樽の中から飛び出し、水場から去ろうとした。

「待って!」マヤは艶のある華奢な背中に向けて言った。

「明日も、これからも、そのあなたで居て……」

 モリは背中越しに頭を傾げて頷いた。そして、暗闇の中に紛れて行った。

 垣間見た少年の素顔。思いがけず向けられた感情に戸惑いながらも、地中深く埋めた種皮を突き破る快感に浸った。

 広間の扉が軋みを上げた。陽の下で見るモリは貴公子然としているに違いない。膨らむ期待を込めて振り返った。

「モ……」

 しかし、足を踏み鳴らして近寄って来たのは、細めた眼に禍々しい光を宿したレンだった。

 薔薇の褥から這い出たままなのだろう、おざなりに羽織ったガウンが乱れ、隆起した胸板に水泡と見紛う汗が浮かんでいた。

 彼は唖然と立ち竦むマヤの両腕を容赦なく掴んだ。力を込めた指先が肉に食い込み、小さな悲鳴が上がる。

「見下げ果てた女だ」苦々しく吐き捨て、やり場のない感情を込めて揺すった。

「おれに隠れて盗み見るのも、おまえのやり方か。たいした魔女だ。おまえにはプライドはないのか!」

 向けられた半顔から溢れ出す、怒りとも苦悩とも取れる複雑な陰。マヤは絶句しつつも、瞳の奥に滲み出る、孤独な色を不可解に感じた。

「今すぐ、ここから出て行け」レンは鋭い一瞥を押し付けると、力任せに腕を引いた。

「もうおまえに用はない」

 しかし、問答無用に引き摺る男に、彼女は渾身の力で抵抗した。

「嫌よ」両足を突っ張り、食い込む指に爪を立てた。

「治療がまだ終わっていないわ」

「そんなものは終わりだ!」

 被さる声には、断固とした強さがあった。

「どうしてよ」咽喉が震えた。胸の底を打つ衝撃が粘膜を伝う。

「私の才能が欲しいと言ったじゃない。満足するまで帰さないと言ったわ。その為には、どうしてもクロエを見ておく必要があったの!」

 レンは暫し無言だった。ただ冷たく眇め、彼女を物のように抱え上げようとした。

「やめて、嫌よ。あなたが急に変わるなんて……クロエが何か言ったのね!」

 男の顔が強ばった。途端に腹立たしく奥歯を噛み、マヤを床に払いのけた。

「それが狙いだったんだろう」

 そして、ゆるゆると肩膝を床に置き、奇妙な薄ら笑いを浮かべた。

「おまえの望み通り、クロエの方から会いたいと言ってきた。次の満月、必ず地下に連れて来いと……」

「駄目だ!」

 その声は真っ直ぐに響いた。

「どういうことなの。駄目だよマヤ。絶対にクロエに会っちゃ」

 開かれた扉を抜けて颯爽と歩いて来たのは、絹で出来た緩やかな衣を品良く纏った赤毛の少年だった。白く透ける肌を彩る碧眼《ターコイズ・アイ》。膨らみのある唇を軽く引き締め、漂う空気を反転させた。

「モリ……」

 レンは息混じりに呟くと、半信半疑に眉間を顰めた。弟が自分を押しのけても、言葉を発せずにいた。

「お願い、会おうなんて思わないで。クロエがあなたに何をするか……」

 モリは彼女の両手を取り、自らの胸に押し当てて言った。だが、マヤは微笑みを浮かべて首を振った。眩しく変身した少年に歓喜の気持ちが湧き上がる。これが、あの、モリなのだ。

「会うわ」そして、次には強く断言した。

「クロエがそう言ったのなら行く価値があるもの。あなた達がどうして彼女から逃れられないのか、私がこの目で確かめる」

「やめて、マヤ!」

 レンは懸命に説得する弟の横顔を凝視した。そして、立ち上がりながら苦笑した。

「こいつは驚いたな」口端がわずかに歪み、端整で切れ長の目が好奇に光る。

「これが本当におれの弟なのか?あのぼろ雑巾以下の薄汚い子犬と同じとは……見違えたぜ、モリ。まるで不遇の王子だ」

「何があったんだよ。クロエがどうしてマヤを……」

 兄の前を塞ぎ、彼女を守る壁となった。

「この女の下種な趣味に訊いてみろ。おまえが惚れた女なんだろ?」

 嘲笑を繰り返しながら、弟の挑戦的な瞳を睨み返した。

「え、どうしたモリ。クロエが用意した服に八年も袖を通さなかったおまえが、どういった心境の変化なんだ?おれが居ない間に魔女に誘惑されたか。それとも、寝たのか?おまえの惚れる女は淫……」

 モリの平手打ちが飛んだ。兄に手を上げるなど、初めてのことだった。

「どっちが下種だよ。マヤはそんな人じゃない!」

 呆然としたレンは、己の唇の隙間から漏れる不規則な呼吸音を聞いた。だが、すぐに深く吸い込むと、軽く頬を撫でた。

「そういうことか」モリを横目で流し、言葉を失うマヤに向けて皮肉混じりに吐いた。

「この頑固な子犬をよく手懐けたな。クロエですら手を焼いていた駄犬だ。感謝するぞ」

 やにわにモリの首輪を乱暴に掴み、勢い良く引き寄せた。ぐっと鳴る咽喉と一緒に、華奢な身体が波打つ。

「やめて!」

「近寄るな!」身を乗り出すマヤに、男は即座に返した。首輪をきつく引いたまま、モリの頭を鷲掴みにする。

「おまえを海に捨ててやろうと思ったが、気が変わった。クロエに会わせてやってもいい。ただし、条件がある。モリにこれ以上近づくな。こいつに用はないはずだ」

 赤く腫れていく弟のこめかみに、頬を強く押し当てた。マヤは戦慄く身体を抑えながら、ことさら丁寧に返した。

「モリはあなたの所有物じゃないのよ。彼の自由にさせて」

 しかし、男は笑った。暴れる弟を小脇に挟み、容易に身体を押さえつけた。

「そうだ。おれの物じゃない。おれたちはクロエの物だ。二度と、こいつに近付くな」

「はなせよ……」

 モリは両手を振ってもがいた。兄の腕を掴むも、その力には敵わない。

「モリ!」

 唸るマヤを再び重い一瞥が制す。寒々しい男の視線は、断頭する大鎌さながら振り上げられた。

「これ以上、おれたちを掻き乱すな。おまえは何も分かっていない」

──掻き乱す──

 マヤはその言葉に奇妙な引っかかりを感じた。

「おまえは、モリを知らない」

 身震いがするほどの憎悪に満ちた視線だった。ほんのわずかではあったが、マヤの心臓を一突きする殺意がそこにあった。

 レン、あなたは……。

 一つの塊となって動く兄弟。彼が弟を無理に引き摺ろうと、マヤは愕然と項垂れるだけで、微動も出来なかった。

 すると、兄から半身を逃れたモリが、揺るぎない声音で告げた。

「マヤ、ぼくはもう何も変わらないよ。だから、クロエに会わないで。お願い!」

 モリ……。

 マヤは弾かれたように顔を上げた。しかし、幻と思えるほど、彼らの姿はもう、どこにもなかった。

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