女神の仮面/2.悪夢の時

自室に戻った僕は、勲章を無造作に放り投げた。
それは、寝具の上で跳ね、床にコトリと落ちた。
疲れた…。
蝋燭に火を灯し、正装した衣を脱ぎ捨てた。
鏡をよぎる僕の顔。
足を止め、ふとそれを見つめる。
鏡の中の男。それは、冷えた眼差しの僕。
束ねられた絹の髪。乱れた前髪が片目にかかる。
静脈の透けた肌。森深い翡翠眼。それを覆う長い睫毛が、細かく震えた。
人々は僕を<女神>のようだと言った。
天から舞い降りた女神。奇跡の救世主。
薄紅の唇。漏れる吐息。
これが、僕なのか…?
顔を寄せ、己を睨んだ。
女神…僕が…。
鼻で笑った。
違う…。これは、僕の皮を纏った、他人…。
目を閉じ、込み上げる嗚咽を口から吐き出す。
項垂れながら両拳の間に額を埋めた。
父さん…母さん…。
繰り返し思い出す、<あの日>の出来事。
何も出来なかったんだ。僕は…。
それは、長年に渡り残酷に苛み続ける記憶。
僕が十歳。ラカンカが、三歳の時のことだった…。

「どうしたの、オプシディオ…?」
玄関の小窓から離れない僕に、ラカンカは不思議そうに問いかけた。
「父さんと母さんがまだ戻らないんだ。陽が沈むのに…」
燕尾の空が、次第に濃い藍色に染まって行く。
人通りのない石の街並み。民家の屋根に闇は迫ろうとしていた。
嬰児のミオを連れ、森へ出かけた両親。
奇妙な唸りを漏らし、微熱を出し続ける妹を治癒する為だった。
癒し手である母を悩ませた原因不明の病。
きっと、ミオの体質に適した療材があるはず…。
その藁にもすがる親の思いが、時間を忘れさせていた。
「迷子になったんだよ。迎えに行ってみようよ」
無邪気に服を引っ張るラカンカに、僕は苛立ちをぶつけた。
「駄目だ!陽が沈んだら外に出ちゃ駄目なんだよ!ここに居なきゃ…」
返された吠え声に、ラカンカは目を丸くした。
唇を山型に歪ませ、目尻を下げる。
幼い弟に分かるはずもなかった。
そう思いながら、僕よりも小さい手を申し訳ない気持ちで握った。
「駄目なんだよ、ラカンカ。何があっても外に出ちゃ駄目だよ。父さんが『館を守れ』って言ったんだから…」
僕なりに精いっぱい優しく諭した。
それに対して無言で頷いた弟は、無理に笑顔を作ってみせた。
不安か安堵か…複雑な気持ちに涙が滲んだ。
見られたくない。
背中を向け、小窓の鉄扉を半分閉めた。
再び僅かな隙間に貼りつく僕に、ラカンカはそっと身を寄せた。
薄暗いエントランス。
夕暮れには、この小窓も塞ぐように言われていた。
だけど、心配で心配で、どうしても完全に塞ぐ事が出来なかった。
「沈んじゃったね…」
ラカンカは僕の横にぴったりと寄り添い、薄闇の中で呟いた。
「大丈夫だよ…ぜったいに、帰ってくる…」
それは、自分自身にも向けた言葉だった。
しかし、闇のベールは、石壁を容易く支配して行く。
もはや、射し込む光など一筋もない。
父さん、母さん…。早く帰って来てよ…。
更に鉄扉を閉めた僕は、辛うじて片目が覗く隙間から石畳を見た。
すると、遠くの方から混乱した物音が聞こえた気がした。
静けさ漂う石の街に、それは明らかに反響している。
息を呑み、目を凝らした。
もしかして、父さんと母さん…。
期待に震えながら、ガラスに額を押しつけた。
鼻息で微かに曇る。
しかし、近付く音はけたたましく、異常な様相だった。
絡まり合う足音。
そこに被さった甲高い悲鳴。
僕は一瞬にして凍りついた。
闇で良く見えない。でも、見えない事を救いにも感じる。
それほど迫り来る空気は、僕を恐怖に陥れた。
違う、父さんと母さんじゃない。僕たちは関係ない。
お願い、通り過ぎて…。
しかし、更に切迫した怒号が響いた。
「父さん…?」
ラカンカは僕の脇で顔を上げた。
瞬く間に跳ねる心臓。
そうだ…。あの声は、間違いなく父さん…。
人影が見えた。
そのまま館を過ぎる事を願ったが、残酷に望みを払い、僕たちに向かって来た。
静寂を引き裂く悲鳴。
僕の身体は恐怖で竦み、膝下だけがいたずらに震えていた。
「オプシディオ…どうしたの、ねえ…」
朦朧とした僕を揺さぶるラカンカ。
「ねえ、オプシディオ…」
目の前に居るのは、母さんだった。
ミオを胸に抱き、足を引き摺りながら顎を上げた。
「オプシディオ!」
扉を隔てているにもかかわらず、母さんの鮮明な声が聞えた。
「閉めなさい!」
閉めなさい…。この鉄扉の事…?
「閉めなさい!」
「母さん!」
僕は我を忘れて叫んでいた。
無意識に鉄扉を叩き、一心不乱に呼びかけた。
「母さん!」
「閉め…」
母さんは突然、地面に転がった。
何モノかに勢い良く突き飛ばされていた。
「母さん…」
だけど、僕は知った。突き飛ばされたんじゃない。
黒い影が母さんを包み、全身を鋭利な刃で撫で回していた。
息が止まった。もう、悲鳴すら出ない。
奴らは地面に伏せる母さんを何度も揺さぶった。
そして、おもむろに転換すると、今度は扉に向けて突進した。
慌てて身体を離し、鉄扉を閉じた。
同時に威嚇の突撃で、エントランスが振動した。
悲鳴を上げるラカンカ。
弟の目を塞ぐように、急いで抱きよせた。
父さんの声がした。何度も母さんの名を呼んでいる。
僕は恐ろしくて、これ以上、鉄扉に触れることが出来なかった。
どうしよう…父さん…!
全身が心臓になった。
「オプシディオ…」
不安に怯えたラカンカは、腕の中で啜り泣きを始めた。
静寂の中に残虐な音が響く。両手で弟の耳を塞ぎ、頭を強く抱いた。
僕の耳には全てが聞えていた。救いのない絶望。
それは、終わりの見えない悪夢の時…。
父さん…母さん…。
僕はそのまま床に崩れた。
両親はきっと、間違っていないと言うだろう。
助ける事など、望んでもいないだろう。
だけど、僕は…何も出来ずに震えていた自分を、憎んだ。
暗黒の中、再び無気味な静寂が訪れた。
扉を隔てた向こうで、両親がどうなったのか。
僕は理解していた。理解しながら、抑えきれない嗚咽を漏らした。
上から伸し掛かる後悔が、僕をどん底へ押し潰す。
ごめんなさい…。
泣き出した僕に、ラカンカも一緒になって号泣した。
許して…。父さん、母さん…ミオ…。
僕たちは互いに強く抱きあった。
そして、疲れ果てるまで泣いた…。

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