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猫の十字架/7.濃紺

「本島ではなんでも叶う。そんな希望もあればそれを覆す絶望だってあるわ」

 イズミさんは白樺のような両腕で、わずかな刺激も許さない、際に水面を湛えたバケツを持って言った。

「希望の中の絶望なら怖くない。可能性というものが残っているから」

 あたしの生易しい言葉に彼女は柔らかく口端を上げた。そしてほんの少し視線を燻らし「そうね」と、呟いた。

 給水場の片隅で肩を寄せ合うように立ち話をするあたしたち。それを横目で睨めつける女たちの視線は、日増しにひび割れた鋭利な侮蔑へと変わっていく。あたしを気にかける素振りをしていた洗濯女たちでさえ、嬉々として雑言を浴びせるようになった。

「テルミちゃん。お友達ができて良かったねえ」

「類は友を呼ぶのかね。この淫乱女」

 こんな薄汚れた負け犬の遠吠えには慣れている。むしろ本性を現してくれて清々した。だから、あたしのことは露ほども気にならない。でも、イズミさんを同類にすることだけは許せなかった。彼女は特別なのだ。それなのに男の視線がイズミさんにあることを憎悪し、まるで子供の虐めのように鬱積を晴らす。

 それに反して、イズミさんは<大人>だった。女たちをまるで空気のように扱い、あたしには笑顔を見せて語りかける。それら雑言の意味を問うこともしなかったし、我知らずといった体で完全に受け流していた。この土地の女なら掴み合いの喧嘩になっても不思議ではないのに、舌を巻くほどの気丈さだ。しかし、未だ真意の見えない横顔を見るたびに、これは永遠のものだろうかと疑念を持った。

 以来、イズミさんとは会っていない。ユーイチと鉢合うこともなく、葉山家はすっかり息を潜めてしまった。

──たまには遊びに来てやって。

 このあたしが扉の前で身を捩り、ドアベルを押すべきかどうか五回も躊躇っている。わざわざユーイチのいない時間を狙ってまで他人に執着するとは、イズミさんという人間は良くも悪くも他人を惹きつける魔力があるのだと感じた。

「入れば」

 だが、事態は小恥ずかしいほど円滑に進んだ。いつの間にいたのだろう、背後には制服姿のユーイチが立っていた。

──痩せた。

 久しぶりに目にしたあいつの印象は随分変わってしまったように感じた。茶褐色の瞳は光を失い、濃霧の中を彷徨っている。わずかだが頬もこけ、灰色の幕を被っている死者のようだった。

「忘れ物を取りにきただけだから」淡々と鍵を開けながら覇気のない声音で壁を築く。

「母さん、まだ寝てるかも。でも、君に会いたがっていたから」

 <あたしが>言葉を失ってしまった。纏う空気のせいなのか半袖のシャツも些かくすんで見える。あたしは無言であいつの背中を追い、葉山家という謎めいた聖域へと迷い込んだ。

 そこは、思った以上に簡素だった。我が家と比較にならないくらい清潔だったが、たった二十平米足らずの部屋ですら持て余すほどで、ごみの城特有であるパステルカラーの壁が皮肉なほど浮き上がっていた。

「母さん、テルミちゃん」素っ気なく寝室に顔を覗かせたユーイチは、それだけを告げ、棚の中を探り始めた。

「起きるみたいだから座って待ってて」

 そしてあたしに背を向け、ボストンバックの中に<ある物>を忍ばせた。限りなく普通を装ってはいたが、あたしには分かる。ユーイチが握りしめていたものは間違いなく折りたたみナイフだった。

「輝美さん!いらっしゃい」

 あいつはイズミさんが姿を現わすと同時に、踵を返した。

「ちょっと、祐一」

 そんな呼びかけに反応することもなく、まるで脱兎のごとく逃げ去った。

 ユーイチの忘れ物。あたしと同じようにナイフを忍ばせ、いったいどこへ行くというのだろう。

「愛想がなくてごめんなさいね」

 苦笑する彼女に告げ口をする気はなかった。あいつの中に渦巻いているものは恐らく簡単には収められない、何か。

「お茶をいれるわね」

 彼女は寝巻きの上にガウンを羽織っていた。頭にはカーラーの山盛り──それでも品は失われていない──と、それを覆う網。素顔ではあったが小動物のように快活な可愛らしさを醸し「遊びに来てくれて嬉しいわ」と、はしゃぐ姿はまるで少女のようだった。

「あの……寝てたんだね」

「気にしないで。最近は夜中に仕事をしているの」

 あたしが問う間もなく、運良く繊維工場に巡りあったと説明をしてくれた。確かに運がいい。この島は縄張り意識が強い上に余所者を受け入れてくれる場所は少ない。それなりの代償があれば別だが、イズミさんにそんな伝手があるとは思えなかった。

「祐一とも擦れ違いでね。なかなか話をする機会がなくて……」

──この母子はどうしてごみの城に来たのだろう。

 駄目だ。他人の干渉を恐れるあたしが、気づけばこうして嗅ぎ回ろうとしている。

「学校をやめて働きたいって言い始めたの。私としては高校は出て欲しいし、ちゃんと話をしたいと思っているんだけど、あの子が嫌がって」

 やかんが鳴った。幸いにもそれは取り憑いた一つの疑問を遠ざけ、あたし自身をあるべき場所へと引き戻した。

「ごめんなさいね。祐一の話ばかりして」

 芳香な紅茶を差し出しながら照れ笑いを浮かべる彼女は、今のユーイチよりも幸せそうに見えた。

「ううん、あたしもそんな親になりたい」

 子供の話になると親はこんな顔をするものなのだ。あたしの記憶の片隅に残る母親の顔は額に刻まれた皺の一部だ。それが口を開き「売女」と叫ぶ。親になる欲望も希望も何一つ感じたことはなかったが、彼女を見ていると失った願望さえ蘇る。

「ちょうど良かった。輝美さんに渡したいものがあったの」

 彼女はいきなり立ち上がると、部屋の片隅に窮屈そうに置かれた衣装ハンガーから、水玉のワンピースを取り出した。

「本島から持ってきたんだけど、輝美さんに似合うと思って。よかったら貰ってくれないかしら」

 考えたこともない申し出にどう答えていいのか分からなかった。そんな気持ちを他所に、彼女は待ちきれないとばかりに急き立て、あたしを姿見の前まで連れ出した。

「当ててみて」

 濃紺の生地に粉雪のような水玉。あたしの中のちっぽけな認識では品の良いお嬢様の服。言われるがままそれを胸の前に当ててみたものの、気恥ずかしさで正視できなかった。

「やっぱり素敵!」

 イズミさんは一人ではしゃいでいた。おまけにあたしの髪を掻き上げながら、あれやこれやと思案している。髪に触れられることが苦手な人間がこの世に居るというのに、まったくお構いなしだ。しかし、次第に彼女の指を優しく感じた。それは「大丈夫」だと語り続け、あたしの存在を肯定する。そんな蕩けそうな心地に、このまま時が止まればいいとさえ思った。

「見て、輝美さん。可愛い!」

 そこには見たこともないあたしが立っていた。

 一本のピンで団子状にまとめられた髪。何一つ手入れをしていない肌ですら水玉の色と同化する濃紺の生地。膝頭をわずかに隠す丈も神懸かり的な品を醸し、まるで汚れのない婦女に見えた。

 だが、その姿は現実を伴っていた。ごみの城で生まれ育った薄汚れたあたし。それを着る資格などないあたしが横に立ち「惨め」と笑い狂う。それでも、もし、胸を張って受け取れる日が来たとしたら……。

「あたし、貰えない」

 イズミさんは背中に添えていた手を滑り落とした。

「勘違いしないで。今じゃないってこと。とても素敵だから……素敵だから、あたしが本島に渡る日に、餞別がわりにプレゼントしてください」

「輝美さん……」

 彼女はいつものように柔らかく微笑んだ。そして、軽く頷き、服を受け取って言った。

「分かったわ。それまで大切にしまっておくわね」

あたしたちは顔を見合わせて微笑した。希望を一つずつ形にしていく共犯者。それがどんなに心強くて、救いだったか。

 きっと、あたしは何も見えていなかったのだろう。諸手を挙げて未来を信じすぎたのだ。例え全てが引き裂かれたとしても、今、イズミさんから受け取るべきだった。時は残酷に人を変えるものだと、知っていたはずなのに。

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