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それは「厳しさ」じゃない

高校生の時、ジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」を見た。1955年の映画。
主人公のジムは、国も時代も容姿も性格も性別も、何から何まで私とは違うようで、なんか、悩んでいることは同じような気がした。
画像は、私が高校生の時に、ジムのつもりでノートに描いたもの。

「また親に恥をかかせる気?」

ジムの母親のこの言葉が、本当に腹が立って、イラッとした。
苦しんでいる息子に対する第一声がそれかよ!

…でも、親になって親の苦労がわかれば、私もそんなふうに思うものなんだろうか。。?
当時はそう不安に思った。

でも、今はますますこの母親の言葉に激しい怒りと恐怖を感じる。

「うちは厳しくしているから大丈夫だ」を、完全に履き違えている。

ただ、常にガミガミ上から批判しているだけ

実はただ怖いだけの、相手を不快な気分にさせるだけの言葉や態度で、人をなじるだけ

無意識に自分の不機嫌のはけ口のサンドバッグを探しているだけ

お前は駄目だと人を貶め、自分はできる人間だと優越感に浸りたいだけ、マウントを取って相手を潰したいだけを「厳しさ」だと勘違いしている

恐怖、力で、人を自分の思い通りに従わせたいだけ
相手の内から自然に起こっていくるものには目もくれない、考えたこともない


しかもその自覚がない。

こんな、厳しさの「履き違え」人間のために、萎縮して自分の能力を発揮できなくなる人間がつくられる

また、今ここなら叱られないからという基準で平気でゴミをポイ捨てするような、「履き違え」人間の前でなければ、平気で悪を行う人間を生み出して行く。。。

「履き違え」人間には、自分の本心を開けるわけがない


そして、「うちは厳しく躾けているから大丈夫」な親は、理由なき反抗の母親のように、「まさかうちの子に限って」、「うちの子どもは何を考えているかわからない」という事態になる。

一つ一つは、とても些細なもので、「普通」にはびこり過ぎているだけに、捉えどころがない、自覚もできない、取り締まりもできないのが恐ろしい。
むしゃくしゃする、苛立つ、「理由がない」ように見える。

こんな恐ろしい蓄積になる前に、何ができるか…

些細な場面を解決していくことより他にない気がする…。

例えばこんな場面…

3歳ぐらいまでの子どもは、見たことがないものを見ると、まず確かめようとする。誰かが面白そうに遊んでいると、それに興味を持って向かっていくもの。

兄弟で同じシールをもらったら、下の子が3歳以下くらいなら、上の子のシールも掴みに行こうとして、兄弟で取り合いになって揉め出すもの。

こういう時は、まず下の子に実際にそのシールを見せて、「本当に同じだ」と自分の目や手で納得させるのがいい。

「あんたは年長なんだから、年下に譲りなさい、我慢しなさい」ということじゃない。
「お姉ちゃんでしょ!お兄ちゃんのくせに」そんな抑圧で子供をコントロールしようとしたら、子どもは自分が兄、姉であることを恨むだけだ。

そうではなくて、これが一番早く、無駄に揉めたり面倒がないから。
そうしないと、何かと人と張り合って、力で奪い取ろうとしたり、抑えつけたり、泣き喚くことがエスカレートしていく。

口頭だけで、「同じシール持ってるでしょ!」と小さい子を制したり、上の子を抑圧してその場を収めようとするより、下の子が実際に自分の目や手で納得することが、一番スムーズに、みんなが満足して、毎回小さな「しこり」を溜め続けない方法。

それにしても、高校生の時は思わなかったけど、今になって「理由なき反抗」見ると、ジムの家の家具とかから、なんか、ローン臭がプンプンする。

ちっともいいと思えない、持ち物が幸せそうな「顔」に見えない。どっからそんなふうに感じるのか、全然わからないけど。


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