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働け、ただしよそで

 適性検査というのは就職の際によくあるものであるが、最近は「不適性検査」というものもあるらしい。これらの「不適性検査」では、早期離職や職場不適合の可能性、コンプライアンス上のリスク、ストレス耐性やメンタルの強度、パーソナリティの特徴や偏りなどなど面接ではなかなか見抜くことが難しい点を扱うものということらしい。

 このような「不適性検査」は、企業が採用の際に有用な人材を見極めると同時に、「リスク」となってしまうような人材を回避することをも目的としているようだ。確かに採用したものの職場になじめなかったり、早期に退職されたりするのは企業にとっては困るし、ましてやコンプライアンスの問題など引き起こされれば企業の存続自体が危ぶまれる。採用人数の少ない中小企業ならなおさらであろう。筆者が経営者の立場であったら利用を検討してもおかしくない。

 筆者は「不適性検査」自体を否定するわけではない。誰を雇うかは企業が決めることだし、面接や既存の適性検査の延長線上にあるものにすぎないとも言える。上記のリンクのどこかにあったが、提供している企業の提案として、経営者やその会社で活躍している社員に検査を受けてもらいその結果をもとに会社がどのような人材を求めているかを分析することが勧められていた。会社によって求める人材は様々であり、これらの検査が一律に排除すべき「不適性人材」を決めるというわけではない。

 しかし、多くの会社が「不適性人材」とするような人たちが生じることは容易に想像できる。具体的に言えば、ルールを守れなかったり、対人関係に問題があったり、業務の中で苦手とする分野が多かったり、ストレスに弱くメンタルを壊しかねなかったりするような人たちである。短所が業務と関係なかったり(上記のような項目はほとんどの業種で問題になるのだが)何かしら短所を補って余りある長所でもなかったりしなければ、あまり採用したくない人材であろう。


 では上記の項目に当てはまってしまったがために「不適性」とされた人たちはというと、彼らの希望の職には就けず希望をどんどん下げていくか、あるいは労働を諦めて別の生計の立て方を模索することになるのだろう(自分で短所が影響しない仕事を作るというのもあるが、それはそれで厳しい道であろう)。基本的には「優秀な人材」から希望の職種やよい待遇の職につけるように現在の社会ではなっているので、そうなると「余りもの」の人材には「余りもの」の職しかないことになる。

 問題は、そういった「不適性人材」は何も自分でなりたくてそうなったわけではないということである。それらは発達障害と呼ばれるような脳の器質的異常に起因するものかもしれないし、環境の中で不可避に巻き込まれた事象が影響しているのかもしれない。「優秀な人材」になるために本人の努力があったことは否定しないが、企業から求められるか求められないかを全て自己責任の領域に帰結させるのは乱暴であろう。

 しかし現実として福祉制度はあるものの、多くの場合そのような「不適性人材」も労働者として自立することが求められている。確かに企業の側も人材を選ばなければならない存在で(特に中小企業は)強者とは言えないのだが、一方で労働者となる側も労働力を売らなければ生活できない(少なくとも望むような生活は送れない)存在である。「金をよこさないと、働くぞ」などと言える立場ではない。

 結局のところ、多くの会社から「不適性人材」とされてしまう人たちは社会から「働け、ただしよそで」と言われているようなものだ。社会は彼らを労働力として包摂することに消極的だが、かといって彼らが労働をせずに生活することを快く思っているわけでもない。彼らが福祉に頼って生活するというのは、労働者として生活する人には自分の報酬の一部を「無能」に奪われているように感じられるだろう。「働かざるもの食うべからず」の我が国での主流の解釈がそれを示している。


 労働力を換金して生活するというのが主流のライフスタイルである限り、このような「不適性人材」が生じるのは避けられないだろう。特に現代の労働の複雑化、高密度化、高速化により少し前なら顕在化しなかった「不適性人材」でも問題化してしまうこともあるだろう。

 しかしこれは裏を返せば、労働に頼らず生活することが容易になれば現在「不適正人材」とされるような人も生活に困ることはないということでもある。機械化の進展で社会を維持するための労働者需要は減少するはずだし、そうなれば不適性とまではいかなくても不必要とされる「労働者層」が出てくるはずだ。労働市場から押し出された人たちが多くなったとき、彼らを生活させるための仕組みが必要になるだろうし、「不適性人材」が労働を迫られることもなくなる……というのは少し楽観が過ぎるかもしれないが。

 将来のことはさておき、現在の社会システムでは労働力として多くの場面で不適性とされるような人たちが出るのは不可避のことであり、彼らを勝手に社会に連れ込んでおきながら大人になって「不適性」と突きつけるのは勝手が過ぎるように思える。労働が「社会人」に求められる必須事項でなくなるのが彼らにとっては最善だろうし文明の発展の方向にも合致していると思われる。ただ、どうしても社会が「働かざる者食うべからず」を続けるのであれば、「命の選別」「優生思想」と言われそうだが、生まれる前にあらかじめ労働者適性を見ておくほうがまだ優しいようにさえ感じられる。

 そのうち「不適性検査対策」なども出てくるのであろうか。

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