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安楽死議論のすれ違い

 半年ほど前に私が書いた、安楽死が実現された場合の影響についてのテキストを無料公開に切り替えた。ぜひこちらもどうぞ。

 安楽死、特に「健康な」人も利用できる積極的安楽死制度についてはその是非を巡って議論があるところだ。私としては、親により勝手に人生を始めさせられた以上、そこから苦痛なく退出する権利は認められるべきだと考えているので、その手段としての積極的安楽死制度には賛成である。しかし一方で現在の社会にそれを導入するにあたって課題があることもまた事実であり、反対派の現実的な意見にも否定できないものがある(詳しくは冒頭のリンクの記事を見ていただきたい)。

 ところで、この安楽死(以下「安楽死」は万人の利用できる積極的安楽死も含むものを指す)実現についての議論は賛成派と反対派で必然的にすれ違ってしまうのではないかという考えを最近抱いている。

 こちらはおそらく安楽死反対派・慎重派と思われるツイートだが、もっともなことを言っていると思う。安楽死を選べるということはすなわち死んでいないことが「安楽死を選んでいない状態」に必然的になるのであり、「簡単に死ねない」ことで許されてきた存在が危うくなるというのは予想できることである。「生産性」がなく、生きていることが周りに迷惑になるような人にとっては、建前としては自由な選択であるはずの安楽死のほうにじりじり追いやられる恐怖を感じられてもおかしくない。

「これは単に選択肢を増やすだけなのだから、別に選びたくない人は選ばなければいいだけの話なのに」というのは安楽死に関しては当てはまらないだろう。


 ただしこのような反対派の意見が賛成派に届くかと言うと、それはどうかと思ってしまう。なぜなら安楽死制度の実現を希望する人たちの多くが死にたさを抱えているだろうと思われるからだ。彼らは安楽死を利用したいのであり、生きたいのに周囲から安楽死を期待される状況に自分が陥る懸念より、死にたさを抱えたまま死ねない懸念の方が実感としてあるだろう。

 安楽死、特に「健康な」人も対象にする積極的安楽死に賛成する動機としてすぐ、あるいは近い将来の利用希望がある人にとっては、生きたいのに安楽死に追いやられてしまう人がいるという意見はどれほど影響をもつだろうか。彼らの死にたさを解消できなかった社会のことが軽視されても仕方がないように思う。

 一方で自分が安楽死を利用するなどあまり考えない人にとっては、安楽死導入のメリットは限定的である。彼らにとって安楽死が現実味を帯びるのは老後回復の見込みのない状態になったときぐらいだろうし、それもないと考えている人もいそうである。そのような中で先ほど貼ったリンクに書かれるような懸念があれば(論点や問題はそれだけではない)、反対の立場をとるのが合理的選択になる。

 このようにして、安楽死導入に関する議論というのはその人の安楽死への積極性によってすれ違ってしまうのである。楽に死にたい人にとっては安楽死に伴う懸念など大した問題に感じられないだろうし、逆に安楽死の利用を考えない人にとっては死にたい人の思いより社会に(≒自分に)与える影響を考えて反対することになる。

 最初のほうで私が安楽死を認めるべきとした根拠も、多くの人が同意するわけではなさそうだ。日本で安楽死が認められるのは個人の権利としてではなく社会の要請―例えば社会保障制度の危機―に応える形になるのでは、という予感もする。

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