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反出生主義は「出生は全て悪い」とするのか(について少しだけ)

 来月反出生主義についての本を出す森岡正博氏からすると、反出生主義というのは「誕生害悪論」すなわち全ての出生を悪いものとするという前提を含むものらしい。私はたびたび、反出生主義は「生まれないほうがよかったか」というより「これから子供を産むべきか」を問うものではないかという話をしていたが、森岡氏によればそれは反出生主義の一面にすぎないという。

 はじめに断っておくと、この記事でその点に関して自分なりの結論を提示するまでには至らない。自分はベネターの本も読んではいないし、森岡氏の本を読んでからでもこの話は遅くはないかなと思う。ちなみに、「本人が認識できない『悪さ』は『悪い』とできるのか?」というツイートには、森岡氏よりベネターの本にその点について書かれているという情報をいただいた。一応この前、この話について自分の見解を書いた記事のリンク置いておくので、興味ある方はどうぞ。

 上のリンクの記事でも書いたが、確かにベネターは彼の本のタイトルからわかるように「存在してしまうこと=害悪」としている。森岡氏はショーペンハウエルもそうだというから、アカデミックのほうでは「全ての出生は悪い」とする反出生主義が主流ということであろう。

 一方で日本のインターネットで自分が見る限りでは、そういう考えばかりでもないように思う。例えばこちら(「子をもつ理由③」のところ)とか。すなわち個々の人生の評価はその人しか下しえない主観的なものであり、出生によってもたらされるリスクや害があったとしても、本人が「生まれて良かった」と思うことはありうるし、それを否定するのは難しいという考えである。この前Twitterで簡易的なアンケートをとったところ、27票の投票をいただき五分五分の結果であった。なおこのアンケートに関しては質問が適切でないのではという指摘もあったので、あくまで参考程度に捉えていただきたい。

 この両者の違いは次のような例えで説明できるかもしれない。出生は全て悪いという主張は、出生を「毒を無理やり摂取させること」と同様のものとみなす一方、出生の評価は本人次第とする主張は「好き嫌いの分かれる/アレルギーを引き起こす食べ物を食べさせること」になぞらえるだろう。

 毒を摂取させれば被害者すべてに害が出る。仮にその毒が一時的に快感をもたらすものであったとしても、それは表面的なものにすぎず実際は健康や生命が脅かされているという。そのような毒を摂取させることはやめるべきである。

 一方、好き嫌いが分かれる、あるいは人によってはアレルギーを引き起こすような食べ物を無理に食べさせることは、毒の場合とは少し話が違う。それを食べても特に問題のない人や、むしろ美味しかったと思う人もいるであろう。しかし、その食べ物がとても嫌いな人や、あるいはアレルギーのある人にとっては、合意もなしにそれを口に入れられるというのは苦痛の強制である。

 前者の出生は全て悪いとする立場では、出生は確実に悪い、害をもたらすものであるため、我々は例外なく「生まれてこないほうが良かった」し、それを強制させる生殖は繰り返すべきでないとなる。この考えだと、生殖を否定するのはスムーズだが、出生が全て悪いということの証明をいかにするかが問題となる。

 後者の出生の評価は各人次第で、肯定的評価の可能性も認める立場では、出生がもたらすリスクを危険視して、生殖を否定する。この考え方の場合、出生が全て害悪である、全ての人間は生まれてこないほうが良かったということを証明する必要はない。生まれてこないほうがよかった例というのを挙げるだけで充分だし、そのような例は数多くあるからである。メインの問題は、肯定的にも否定的にも評価できる出生を、なぜやめたようがよいのかという点になるだろう。この点に関しては、反出生主義者は「生まれて後悔することはあるが生まれないで後悔することはない」という非対称性を持ち出すのだ。

 私は哲学的には素人なので、ベネターやショーペンハウエルの「出生は全て悪い」という主張がどのくらい妥当なのかは判断できない。しかし、その主張の受容という点からすれば、「全ての出生は悪い」という命題に関しては、「私が反例だ」という主観的な返答を打ち崩せるか、疑問である。それよりも、「生まれないほうがよかった場合がある、それも無視できないほどの規模で」という話のほうが受け入れられやすいであろう。

 反出生主義において「誕生害悪論」がその論の構造にどれほど不可欠なものか、個人的にはまだよくわかっていないので、今後の課題としたい。ベネターの本も読んでおいたほうがいいかなあ。

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