反出生主義——生まれない方が/産まない方がよいという哲学①

決して生まれてしまわないことが最善なのだ。だがもし私たちが日の目を見なければならないのなら、次善は私たちがきたところにすぐに戻ることだ。
                            ソフォクレス

 うぇるかむ to じゃぱりぱーく!
 シャライさんのnoteにようこそなのだ!
 記念すべき第1回は、今いちばんホットな(?)思想、反出生主義(Antinatalism , はんしゅっしょうしゅぎ。しゅっせいじゃないのだ!)について、前後半に分けて紹介していきたいと思うのだ!

 しょっぱなから超絶非リア陰キャ暗黒思想について執筆するのは、アライ界隈の深淵が垣間見えるのだ……。実際、twitterの検索窓に「反出生主義」と打ち込むと、けっこうな確率でメンヘラちゃんのツイートがひっかかる。

 だけども、他方で、昨年11月の『現代思想』では反出生主義の特集が組まれ、気鋭の哲学者や宗教学者、フェミニストらが熱い議論を交わしているし、文学に目を移すと、生殖倫理を根源的に問うた『夏物語』(川上未映子著 文芸春秋社)も昨夏に発刊されている。反出生主義は一見すると確かに陰鬱とした根暗思想かもしれないが、最近になってやっと公的空間で議論の土壌が醸成されてきたトピックだとも言えるのだ。すべての人にとって生命が所与である以上、思想のエッセンスだけでも齧っておいても損はないとシャライさんは思うのだ。



 今回のnoteでは先に挙げた現代思想2019年11月号と、現在反出生主義を牽引している哲学者デイヴィッド・ベネターによる『生まれてこないほうが良かった——存在してしまうことの害悪』 (小島和男・田村宜義訳 2017 すずさわ書店)の2つのテクストを主な参考文献としてお話を展開していく予定なのだ。
 と、その前に、こうした哲学的地平の議論に入る準備運動として、note前半部分を使って市井の人々(not アカデミシャン)が抱く出生主義の「素朴理解」をあらかじめ潰しておきたいと思うのだ。小難しい議論を展開したところで、出生主義の側に立つ人たちは「子を産むのは個人の権利だ」とか「でも少子化加速させてるよね?」とか、素朴理解に基づいた反論をしてくるだろうと容易に予測できる。しかしシャライさんは何かポリティカルな主張をする以上、想定しうる反論には丁寧に応答しておくのが筋だと考えるのだ(学問的潔癖なのだ!)


出生主義の素朴理解とその批判

 子を授かるということは、私たちの社会では無条件に善いこととされがちなのだ。子を持たない選択をする人、もしくは身体的問題、性的指向、社会・経済的な都合などなどの理由から子を「持てない」人に対して、無言あるいは有言の圧力がかかっていることも周知の事実なのだ。シャライさんも(男だけど)妙齢なので、出産報告に沸くfacebookを開くのが辛いのだ…。

 政治家の杉田水脈が、セクシャル・マイノリティの人々を指して「生産性がない」(杉田 2018)と非難して問題になった話も記憶に新しい。ちなみに国家などの公の権力が生命の誕生に対し介入していく事態を、ミシェル・フーコー御大は類まれなる慧眼から「生権力」として分析しているが、話がそれるので置いておくのだ。ともかく、子を持つことは善いことであり、特別な事情のない限り子を持たないことは悪なのであるという規範が広く共有されており、ひとたび子を持たないという選択をすれば、批判に曝される可能性があるというのが私たちの暮らす社会なのだ。

 ここではその際、「素朴な」出生主義の側に立つ人々が暗に承認しているか、大々的に掲げる出生推奨の理由を箇条書きで列挙した上で徹底的に叩くのだ。通常善いこととされる出生への批判は多くの人の直観に反しているが故に、強い反発の感情を喚起するかもしれない。しかし哲学的思考の第一歩はいつでも、自明視される観念に一石投じることから始まる(シャライさんドヤ顔なのだ)。


子を持つ理由①:生活の豊かさと老後の面倒

 これらがいかに利己的で自己本位的な都合であるか、ということはそんなに深く考えなくてもわかるのだ。まったくもって子のことを考えていない、恐るべき自己中心主義なのだ。シャライさんは怖いのだ…。
 しかし、人口問題研究所の2015年の調査によれば、子をもうける理由として、こうした自己本位的な理由を掲げる人は多い。というか圧倒的マジョリティなのだ。以下の表を見てもらえばわかるが、例えば「子は老後の支え」とする人は、男性全体で約21%、女性では約19%。「生活が豊かになる」と答えた人に至っては男性で約7割、女性では7割超にも及ぶ。

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 なぜ倫理的に悪なのか、ということは親の利己ということに尽きるのだが、もうちょっと深く掘り下げてみようと思うのだ。
 まず当たり前のことだが、子は他者である。親の一部でもないし、人間的成長の糧でもない。一つの自律した人格を持つ「個」なのだ。子は確かに成長過程にあれば未熟であり、親の庇護のもと、経済的にも社会的にも生活しなければならない。しかし、だからといって将来的に親の面倒を見る義理なんて砂かけらのひとつもないのだ。ここで「育ててやったから面倒を見るのは当たり前だ」と思う方もいるかもしれない。しかし、そもそも頼んでもないのに勝手に産んだのは親なのだ。だから、むしろ「勝手に産んでしまったのだから全面的に面倒を見るのは当たり前だ」が全面的に正しい。「産んだ責任」と「育てる義務」がまず相殺され、初めて親が子に対する借金を返済するのだ。これでトントン。あとは子の自由なのだ!
 「生活が豊かになる」という理由についても同様なのだ。親の「生活が豊かになる」ために子を存在させるなんて、愛玩動物かなにかと勘違いしているのではないか(ちなみに反出生主義界隈においてペットを飼うことにも否定的見解を示す論者は多いのだ)。
 シャライさん思うにこれら主張は、子を完全に客体化ないし半ば物象化しているのだ。すなわち子を道具やモノとして見なすきらいがある。理性と意識を有する一人の人間をモノとしてみなすことの暴力性。こうした理由のもと生まれた子は、後の人生がどれだけ幸福に満ちたものであろうとも、出生が親の「暴力」に依るものだったというただ一点において、紛れもなく不幸な生であるといえるのだ。


子をもつ理由②:人間社会の存続・維持のため

 2つ目の理由もおそらく多くの「素朴な」出生主義者が抱く観念なのだ。実際、新たな世代が生まれなければ、遠い未来に私たち人類は確定して滅びるだろうし、あるいはもっと近い未来において社会保障などの公的サービスを維持できなくなることも想像に難くない。とりわけ少子高齢化社会の日本に生きる私たちは、後者の理由から反出生主義に反対したくなるのだ。しかしながら、シャライさんの考えではこれらの理由も倫理に反しているのだ。主に以下の3つの反駁がありえるのだ。

 まず1点目は、次世代をマスにおける駒としてしか見なしていないという論点なのだ。これは前節で述べた物象化とほぼ同じ角度の批判なのだ。確かに社会を担う次世代がいなければ我々は滅びるが、他方で「社会を担う次世代」が主体として経験する生についてまったく考慮されていない。その生は辛く、苦痛に満ちたものかもしれない。にもかかわらず、人間社会の存続という抽象的な大義のために生み落とされることは、明らかに暴力性を孕んでいるのだ。繰り返しになるが子は社会の駒ではない。一人の人間なのだ!

 2点目は、そもそも人間社会は有限である、という反論なのだ。次世代が生まれようが生まれまいが、超長期的に見れば人間はいずれ必ず滅びる。宇宙的な視座からすると、次世代を誕生させるということは、その滅びる瞬間(おそらくかなりの苦痛であると予想される)を経験することになるかもしれない世代を生産し続けていくことに他ならない。例えるならババ抜きのババを次へ次へと回し続けている状態、あるいはいずれ爆発する爆弾をパスし続けている状態といえる。陽キャオプチミスティック出生主義フレンズの中には「いやいやそんな宇宙的な話想像できねーしw」と思われる人もいるかもしれないのだ。ならばもっと実際上の議論に落とし込んでみようと思うのだ。

 一般に子を誕生させる異性愛者のカップルは2人からなるのだ。ごくごく自明のことだが、意外にも多くの人が気づかない事実を示しておくと、2人のカップルが1人の子どもしか生まなかった場合、少子化は確実に進む。2人の旧世代に対し、1人しか新世代が生まれないから当然なのだ。2人産んでやっとイーブン。3人目で初めて少子化を防げる。ということはつまり、出生主義の立場に立っていても、1人しか子を授からないのであれば、ラディカルな反出生主義が推す漸進的な「人類滅亡」のシナリオに否が応でも加担していることになるのだ!そして現状、合計特殊出生率は2を大きく割り込んでいるため、「子を産むとしても1人まで」という世帯が圧倒的に多いことがわかる。換言すれば、少なくとも我が国において、大多数のカップルが「人間社会の滅亡を確定的に推進している」にも関わらず、滅亡の瞬間に立ち会う世代(ババを引く世代)を生産し続けているという非常に歪な構造があることがわかるのだ。滅亡と出生という矛盾を同時に推し進める愚かなフレンズよ、お前らみんなサノスの仲間なのだ!

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↑シャライさんは怒っている!


 「人間社会の存続」という理由に対する3点目の反論は、より根本的で、かなり説得性の高いものなのだ。これを考えるにあたって、そもそも人間社会の存続とはなんぞや、ということを整理したいのだ。それは例えば経済システムを縮小させることなく・絶え間なく回し続けることかもしれないし、あるいは既存文化の形を変えて再生産していくことかもしれない。もっと身近なところでいえば、自分の血が流れる一族を存続させることでもあり、自分の所属する共同体を維持することでもあるかもしれないのだ。
 と考えると、一つ抜け落ちている観点があることに気づくのだ。すなわち「社会の存続に寄与できない人々」の存在なのだ。あえて具体的にいえば、知的に重度の障害がある人は、おそらく先に挙げた具体的な社会存続のプランにほとんど貢献することはできないだろう。

 したがって、「社会の存続」という視点は、暗黙裡に(この言葉は嫌いだが)生産性という尺度から生命の価値を評価しているのだ。冒頭に出てきた杉田水脈が「生産性」という言葉を使っているのも偶然の符合ではないのだ。これはナチスや、記憶に新しい「やまゆり園事件」の犯人が掲げた思想、いわゆる優生主義にほとんどあと一歩の距離まで接近しているのだ。「社会の存続に寄与しない者は生きるに/生まれるに値しない」と。
 新たな誕生を社会存続のためとする出生主義者は、例えば出生前診断で我が子に重度の身体・知的障害があるとわかれば——社会を存続する能力がないとわかれば、本当に中絶を正当化するのであろうか。この主張に倫理的妥当性があるとはシャライさんには到底思えないのだ。
 ちなみにだけど、反出生主義には、優生主義に対するカウンターとしての側面もあるのだ[1]。優生主義が価値ある生命と、そうでない生命の選別をするのに対し、反出生主義はすべての生命に等しく価値を見出さないのだ(毒をもって毒を制す感が強いのだ…)。


子を持つ理由③:子自身の幸せのため=幸せな人を誕生させることは善

 生は幸福に満ちており、したがって子を産むことは幸福な人を誕生させることになるため肯定される、というのが「素朴な」出生主義が抱く3つめの理由なのだ。この主張はそれなりに強力であり、議論の水準は陳腐な言い方をすれば「幸福論」という哲学的な地平に引き上げられるのだ。これには以下の2つの応答が考えられるのだ。

 冒頭で出てきたディビッド・ベネターは人間の幸福を否定するために、『生まれてこないほうが良かった』の3章をまるまる使って「誰の生であってももれなく苦しみに満ちている」ということを仔細に論証しているのだ(芥川龍之介の「人生は地獄よりも地獄的」という言葉を彷彿とするのだ…)。そもそも生が幸福であるという前提を崩してしまえば、主張が成り立たなくなるというわけなのだ。
 しかしながら、シャライさん思うに彼の論はいささか拙速な内容で説得性に欠けるのだ。ベネターはポリアンナ効果[2]を前提としたうえで、人々が自身のQOLを不当に高評価していると指摘する。さらに3つの幸福の尺度(快楽説、欲求充足説、客観的リスト説)のいずれを採用しても、人間の生は不幸に満ちていると論証することができると豪語している(Benatar 2006→2017)。しかし、ベネターがいかに完璧な論理と「客観性」をもって人の生が不幸であると主張したところで、けっきょく人間の幸不幸は当人の主観的な水準によってしか測ることができないのだ。その主観が客観的公準や論理と照合して間違っていると指摘できたとしても、当人が幸せな生を謳歌していると言うのであれば、幸せなのだ。超パリピに、ベネターみたいなド陰キャが「ポリアンナ効果を前提とすると、あなたの人生は不幸ですね(ニチャァ」なんて言ったとしても、間違いなく相手にされないのだ…。

 しかし幸せは主観性に大きく依存する、とするのであれば、むしろそこが問題となってくるのではないかとシャライさんは思うのだ。つまり、親の生が幸せだったとしても、それはあくまでの親が見ている世界での話であって、子がこれから見る未知の世界の話ではないのだ。「私が幸せだから、子も幸せなはずだ」という主観的な推論から、子の誕生を正当化することは不可能なのだ。

 主観性の問題に加え、もう1つ可能な反論は、存在と非存在の非対称性に基づくものなのだ。この存在/非存在の非対称性という概念はベネターの主張の中核を成すもので、後半でより詳しく検討するけど、簡単にまとめてしまえば「①誕生すること=快/害があること(存在)」と「②誕生しないこと=快/害がないこと(非存在)」は後者の方がよりよい。さらにここから演繹される非対称性として「親には不幸な子を産まない義務はあるが、幸福な子を産む義務はない」というものがあるのだ。この命法はなんら直観に反するものではないのだ。子が幸福な生を送るか、不幸な生を送るかは完全に予期不可能なのだ。いわば博打に近いのだ。すなわち博打に負ける=不幸な生を送る可能性が1%でもある以上、この命法に従って、子の幸せを願うならばそもそもこの世に誕生させないことが、倫理的に正しいことになるのだ。


 出生主義の素朴理解が掲げそうな正当化の観念はだいたいこのくらいだとシャライさんは思うのだ。自然の摂理論(子孫を繁栄させることは生命の至上目的である)も取り上げようと思ったのだけど、端的に「ヒュームのギロチン」[3]なので、この主張はほとんど吟味する価値はないのだ。
 ここまで読んでくれたフレンズの中には「そんなに出生を否定するなら自発的に天に召されろや」という感想を抱いている人もいるかもしれない。しかし、意外に思われるかもしれないが、反出生主義論者の多くは自死に対して否定的なのだ[4]。
 自死否定の理由はいっぱいあるけども、ベネターが著作の中で繰り返し訴える通り、死ぬこととはすでに存在することが必要要件になっているのに対し、生まれないことは非存在と同義である点で両者の間には根源的な非対称性があるのだ(Benatar 2006→2017)。そして前者はこの世に存在してしまうことで、不可避的に死への恐怖と生への悔恨という苦痛が生じるのだ。しかしそもそもベネターをはじめとする反出生主義者は、こうした苦痛を避けるために反出生——つまり存在しない/させないことを推奨するのであって、すでにある生が自死を選んでしまえば本末転倒なのだ。

 とりあえず今回はこの辺りで筆を置こうと思うのだ。かねてより反出生主義的な思想を持っていたフレンズにとっては「今更わかりきったことを何をくどくどと」ってな感じでたぶんとっても退屈な文章だったと思うのだ。自明のお話だったに違いないのだ。
 でも安心して欲しい。次回はいよいよベネターの立論+伝統的な哲学における(反)出生主義を詳しく検討するので、それなりに面白く読めるはずなのだ。
 また出生主義側に立つフレンズにとっては(特に素朴理解へ反論を企図している点で)とても不快な文章だったかもしれない。でもその不快感は大切にして欲しいのだ。そして良ければ遠慮なくtwitterでシャライさんに持論をぶつけてほしいのだ。弁証法的に発展して、シャライさんと一緒にアウフヘーベンを目指そうではないか!のだ!
 ではでは、また次回なのだ!


[1]現代思想2019年11月号 p,27- 木澤佐登志「生に抗って生きること」
[2]人間の生において不幸なことよりも幸福なことの方が大きな影響を及ぼすという心理学的効果のことなのだ。詳しくはcinii等で調べてみて欲しいのだ。
[3]認識論的言明「○○である」から、当為論的言明「××であるべき」は導出できないという法則なのだ。ディビッド・ヒュームが『人間本性論』で提示した概念なのだ。またこれのヴァリアントとしてムーアの自然主義的誤謬というものもあるのだ。
[4]すべての反出生主義が自死を否定するわけではないのだ。例えば「最大多数のマイナス効用の削減」に倫理的重要性を認める消極的功利主義の理論に忠実に従うのであれば、自死推奨は正当化しうるとシャライさんは思うのだ。


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社会科学(主に社会学)を専攻する限界ちほーのアライさんなのだ。流行りの思想や社会科学系の議論をnoteで紹介していくのだ。好きな学者はウェーバーとイアン・ハッキング。本業は新聞記者なのだ。

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コメント (5)
反出生主義がネット上(主にTwitterでしょうか)で俄に囁かれつつあります。
そのつぶやきの山々を手に取ると、どうも感情的な意見が目立つように感じますね。

「毒親だったから」「不幸ばかりの毎日でしにたいから」
と、反出生主義者となる理由にはなるものの、そこから正当性をするでもなく、
ただただ自身の不幸を癒やすために呻いている方が多数のようです。
「妊娠出産が怖いから」「自分がミソジニスト/ミサンドリストだから」
といったアプローチも存在しているのですが、
反出生の本質的な部分にはあまり触れていない節があります。この現状は少し残念だと思います。同時に、別に自分が彼らの総意でもないからどうでもいいけど、といった気持ちもありますが。

文献等も明示した、論文的に書かれたこの記事はそういったネットに溢れたライトでソフトな反出生主義者らのみならず、多くの方がたに膾炙されたら面白いだろうなーと、楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。

P.S.
前半の記事の序盤に「性的趣向」なる単語が存在していますが
「性的指向」のことを指しておられるのでしょうか?
>まろん様
コメントありがとうございます。
結果的に背中を押すかたちになりとても責任を感じております。
お褒め頂き大変喜んでおりますが、私の拙文よりもずっとためになる書籍もあり、関心を持っていただいたのならぜひ手を伸ばしてみてください。

……といったものの反出生主義はとっつきやすい入門書の類がないです。本稿で挙げてる『現代思想』は多岐にわたる論点が多角的に検討されていて、学術的な用語が多く登場しますがおススメです。小説では同じく本稿で挙げている『夏物語』がよかったです。現在反出生主義のバイブル的な位置にある『生まれてこない方が良かった』は訳がかなり悪いのでおすすめしません。
>ニョッキ様
コメントありがとうございます!
ご指摘の箇所直しました!たぶんタイプミスです!
「毒親だったから」「不幸ばかりの毎日だから」といった理由で反出生主義に行き着く方はSNSを見てるとけっこうな人数いらっしゃる印象です(というか大部分がそうかも?)。
川上未映子の小説『夏物語』に善百合子という人物が登場します。彼女はゴリゴリの反出生主義者で、物語終盤で「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけない」と主人公に対して述懐します。

上記の一節に象徴的ですが、不幸な境遇にある(と思っている)方々が、己の出生を否定するという根源的な自己矛盾を内包しながらも、ぎりぎりのところで何とかすがる思想として反出生主義は機能しているように思います。

その点で俗流の反出生主義は、ベネターのような体系だった哲学というよりかは、救済の思想に近い感じでしょうか。アカデミックな議論の水準には当然ながら達していませんが、はるかに個人の実存や経験に根差しているという意味では哲学としての反出生主義よりずっと「本質的」なのではないだろうかと私は思っております。
幸福が主観的に量られる、というところからふと思ったのだが、
遺伝子編集などによってヒトの不幸・不快を感じる回路を取り外すことができれば、そのような措置を施した子供を生み出すことは、反出生主義の観点からしても「善である」、あるいは「悪ではない」と言えるだろうか?
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