見出し画像

反出生主義、回顧と選択

 来月に森岡正博氏の新著『生まれてこないほうが良かったのか?』が刊行されるということだ。内容に関しては上に貼ったツイートを読んでいただければわかると思うが、反出生主義の全体について考察した本は日本初ということである。

 反出生主義界隈(あるのか?)では有名なベネターの『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』(邦訳は2017年)が書籍としてはあり、私は読んだことはないのだが、去年出た「現代思想」の反出生主義特集号に載っていたベネターの論文が難しくてちんぷんかんぷんだった身からすると、結構内容としては難しいのではないかと推測する(挫折した場合、お値段もそれなりにするので「買わないほうがよかった」となるかもしれない)。今回出る本がどういう内容かはまだ知らないが、日本人が著者ということで日本での反出生主義を前提として幾分読みやすいものになっているかもしれない。

 森岡正博氏は早稲田大学人間科学部教授の哲学者であり、昨年の「現代思想」の反出生主義特集にも、冒頭の戸谷洋志氏との対談が収録されている。2006年より「生命の哲学」という哲学ジャンルを提唱しているようで、冒頭のツイートにもある通り「誕生肯定」というスタンスのため、反出生主義に立ち向かうという立場になる。以下に森岡氏の自己紹介へのリンクを貼っておくので、気になる方はどうぞ。

 さて本題に入るが、今回刊行される本のタイトルは『生まれてこないほうが良かったのか?』である。私のnoteを長く読んでいる方なら覚えているかもしれないが(もし覚えていたら本当にありがとうございます)、この「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いには去年のあの現代思想が出た頃にひとつ記事を書いている。

 この投稿では、「現代思想」反出生主義特集号の副題が「『生まれないほうが良かった』という思想」となっていたことに対しての違和感を書いている。実はまだこの「現代思想」も十分に読めたとはいえず、読んだら感想書きたいですねと言いつつもう1年が過ぎようとしているのだが…。それはさておき、私にとって反出生主義における関心は、「結局これから子供をつくってもいいの?」という問いなので、この副題には違和感を感じたのであった。

 そもそもべネターの本のタイトルも『生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪』であるので、アカデミックのほうでは反出生主義=「生まれてこないほうがよかった」なのかもしれない。また最初に断っておくが、これは今回出る森岡氏の本についての批判ではない(まだ読んでもいないのだから)。ただ、生まれて良かったか/生まれないほうが良かったのかというのだけが反出生主義の問いなのかなという感覚が私にはある。

 詳しくは先ほどのリンクから私の記事を読んでいただきたいのだが、要は生まれて良かったのか悪かったかというのは結局は「個人の感想」ではないのか?ということだ。カウンセラーから「あなたは生まれてきてよかったんですよ!」と言われたところで(本当に言うかは知らないが)、やっぱりそうは思えない人もいるだろう。逆に人生エンジョイ勢がベネターから「あなたの誕生はこんなにも悪いことでした!」と説明されても(こちらも本当に言うかは知らない)、そんなの実感がないんですがと呆れてお終いである。

 あなたは別に生まれなくても問題なかったし、生まれないことで様々な問題を回避できましたというのは、今人生においてある程度の困難の実感がある人にとっては「生まれないほうが良かった」に傾く材料になるかもしれない。しかしそれでも、生まれて悪いこともあったけれども、総合的には誕生を肯定したいという人もいるだろう。もし全員が全員、「生まれてこないほうが良かった!」と思っていたら、人類はもう絶滅しているのではないだろうか。

 それに、仮に反出生主義が「生まれてこないほうが良かった」ことを証明してくれたとして、それでどうすればいいのか。我々はそれを知って別に成仏はしないし、人生は続くのである。我々が生まれて良かったのかという回顧は多くの人が問うものであるし、それにももちろん意味はあるのだろうが、生まれて良かったのか悪かったのかというのは最終的には個人の実感にゆだねるしかないように思える。

 それよりも反出生主義を問うことの意味というのは、次世代の生産、すなわち「この世界に新しく人間を生み出してもよいのか?」という選択の場面にあるのではないだろうか?

 生まれて良かったという実感を反出生主義が覆すのが難しいのと同様に、生まれてこないほうが良かったという実感もその人にとっては確かなものである。そのように評価が分かれる人生というものを、何の意向調査も同意もなく、子供に授けるべきなのかという問いは、今も世界中で問われるべきものである。自分が生まれて良かったのか悪かったのかというのは、死ぬまでゆっくり考えればいいが、子供を誕生させてもよいのかという問いについてはそうはいかない。とりあえず産んでしまってからでは手遅れなのである。

 今の社会は人口の再生産を前提としている以上、子供を産まないことを善とするというのは、必然的に人類という種の絶滅、そして人類文明の終焉を意味する。平和的に今生きている人間だけで最後の日を迎えられればいいのだが、そうすればいいではないかというのは楽観が過ぎるだろう。それにそもそも現在生きている人間の大多数は反出生主義者ではないし、むしろ既に親になっている人が多い。反出生主義というのは、今の社会にとっては社会自体を根本から揺るがす「危険思想」なのである。

 それでもなお、「生まれて良かったのか?」という問いが存在するということは、「新しく生まれさせても良いのか?」という問いにつながる。それに対し反出生主義は「子供を生まれさせるのは良くない」という結論を提示するのである。仮にそれに従う場合、当然のことながら今生きている人類をどうするのかという問題が発生する。そこまで含めて反出生主義が「子供を生まれさせるのは良くない」とするのか、果たしてそれが実現可能な思想なのかというという問いは、未来に目を向けた際に反出生主義が答えるべき課題であろう。

 今日本で、特にTwitterなどのインターネット空間において反出生主義を支持している人々の背景には「生まれてこないほうが良かった」という実感がある場合が多いように思う。確かに「生まれて良かった」と思っている人には反出生主義は縁遠い存在であろう。

 しかしながら実際に子供をもつのは、特に自由恋愛による結婚が子供をもつ前提となっている日本においては、「生まれてこないほうが良かった」などとはあまり考えていない人たちが主体となるのではないかと推測される。もし反出生主義が正しいと真剣に考え、その実現を目指すのであれば、彼らの生殖を阻止しなければならない。「生まれてこないほうが良かったのか?」と問うているうちにも潜在的な「出生被害者」が誕生させられているのである。

 ということで、私も拙いながら反出生主義に関してはnoteで時々書いてはいるが、個人的には「未来の選択としての反出生主義」「反出生主義の実現可能性」というテーマで考えていけたらいいなあと思っている。ただもちろん、「生まれてこないほうが良かったのか?」という問いは今も多くの人が抱く疑問だろうし、それを含めて反出生主義に関する議論が盛り上がるというのは歓迎すべきことだろう。森岡氏は「誕生の肯定」のために反出生主義とどう向き合うのか、とりあえず注目である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?