安楽死実現のジレンマ

 やはり安楽死容認に対する大きな懸念として、安楽死が本人の自由意志で選択されるものという建前でも、実際には周りからの「迷惑」という圧力によって安楽死に誘導されてしまうことというのはあるようだ。上に引用させていただいたお二方も安楽死制度自体には反対ではないが、それを現在の日本社会に導入することには慎重にならざるをえないという立場のようで、妥当な意見であろう。

 私は安楽死(「健康な」人が自分で人生を終わらせる選択ができること)には賛成である。勝手に始めさせられた人生を苦痛なく終わらせる権利は本人にあってしかるべきだと思う。しかし同時に、引用したツイートのような懸念は十分理解できるところであって、残念ながら今日の本邦では、安楽死は個人の自由な選択であるという根幹の部分が単なる建前にしかならないケースが起こりうることは容易に想像できる。(この国の人権レベルはともかく)「人権も個人の尊厳もない社会」に安楽死を導入することは、弱者を都合よく処分する方法を作るようなものだと言われても仕方ないだろう。

 しかし、安楽死が必要とされるのは「人権も個人の尊厳もない社会」だからこそではないか?

 生まれた瞬間から死にたい人なんてそうはいないだろうし、今現在安楽死で死にたいと考えている人の多く、特に身体的には「健康」な人は人生のどこかで挫折したり絶望したりで死にたいほど辛い境遇にあり、今後の人生に希望が持てなくなった人々であろう。彼らがそのような状況に陥ったのは「人権や個人の尊厳」の保障がこの社会で十分に受けられなかったからだと考えられる。

 どこまで「人権や個人の尊厳」が保障されているべきかはさておき、例えば日本国憲法第25条に記されている「生存権」、すなわち「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」が完全に保障されていれば、安楽死を望む人はその辛さから最大限逃れた生活をすることが容易になる。「逃げてもいい」とはいえ実際には逃げると自身の生活の維持が困難になる場合が多いのであり、生活の心配をしなくてもよい「逃げ道」として安楽死を求めている場合もあるだろう。

 さらには「人権や個人の尊厳がない社会」では、安楽死という選択がなかったからと言って弱者が温かく接してもらえるわけではない。弱者が辛い思いをすることは変わらない。確かに「迷惑」を動機として安楽死を選ぶというのは望ましいことではないが、しかし安楽死がなくても迷惑という周囲の感情が変わるわけではない。安楽死する(させられる)のと自然死するまで自分が迷惑をかけているという罪悪感を覚えさせられながら生きるのとどちらがましなのか考えてしまう。後者の場合、途中で耐えきれず自殺してしまうかもしれない。

 つまるところ「人権や個人の尊厳がない社会」での安楽死導入に対し、弱者安楽死に追い込まれてしまうという懸念が発生するのは至極自然なことではあるが、現在安楽死を望んでいる人は「人権や個人の尊厳がない社会」で苦しんでいるのであり、本邦で人権や個人の尊厳が確立されるのはまだ先の話だろうから安楽死導入は時期尚早と言われても、なおのこと安楽死を実現してほしいとしか思わないだろう。逆に「人権や個人の尊厳が十分に保障された社会」では、安楽死の需要自体が小さくなっているはずだ。

 結局は前に書いた「安楽死議論のすれ違い」の話になる。すなわちマクロで見れば安楽死を導入することに懸念が生じるのは自然な話なのだが、安楽死賛成派の、特に安楽死によりこの社会からの完全な脱出を望む人々にとっては、そういった懸念の前に自分たちの苦しみがあるのだ。ミクロの救済として安楽死を願う人たちにとって、自分たちを苦しめた社会に配慮して安楽死を先延ばしにするということがどれほど現実的だろうか。

 実際のところ、制度を作るのは死にたい人たちではなく社会でうまくやっている人たちだろうし、ミクロだけではなくマクロのことを考えて制度設計をしなければいけないのは事実である。人権や個人の尊厳が保障されないならせめて楽に死なせてくれと安楽死を願う人たちの思いが叶えられることはあるのだろうか。前にも書いたがおそらく我が国で安楽死が実現するのは、社会保障がますます厳しくなり「生産性のない」人々を減らす必要に迫られたときではないかという気がしている。

 こちらのテキストも安楽死に関係して私が書いたものです。安楽死が社会にどう影響するかについてです。あわせてどうぞ。

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