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我々の不快感

 Twitter名物と化した女性キャラ表現批判、先日は某コラボ案件が批判されていた。

 個人的にはああいうイラストは見慣れているので、あの程度でも傷つく人がいるんだなあという感じであった。個人的にはあのスカートのしわも、不自然と言えば不自然だし別になくてもいいとは思うが、ただ、じゃあ次からああいうしわの入れ方はしませんとしたところで、今回批判してた人たちはスカート丈だの表情だのに「論点」をシフトしていきそうで、無限に譲歩を迫られそうである。そんなことしてたらその人たちの好む表現だっていつかは潰されると思うのだが。

 正直「あの程度」の表現が問題となるのも大変だなあと思う。世間一般の人たちの多くはあれを「公共の場にふさわしくない」なんてわざわざ批判しないだろう。あのようなイラストが現実の女性にどのような害をもたらすのかもはっきりしないし、フェミニズムだって女性の体のラインを強調するような服を批判する思想ではないはずだ。それでもTwitterでたびたび女性キャラコラボが批判されるのは、「わざわざクレームを入れるまではないけど不快」という個人のお気持ちがSNSで容易に発信できるようになったことが大きいように思う。

 あのイラストを見て「スカートに鼠径部を強調するようなしわが入っていてけしからん」と思って、Twitterに書き込む前に実際にJAなんすんに直接クレームを入れる人が何人いるだろうか?それに比べTwitterに「不快報告」をするのはかなりハードルが低いだろう。そしてそれを見た人たちの一部が(直接見てはいないが)それに共感して「不快だ」と発信する。ここで重要なのは、別に不快じゃない人は「不快じゃない」とわざわざ発信しないことだ。つまり、現実で誰かに直接「あれ不快じゃない?」と聞けば「不快だ」「別に」のどちらかの回答が返ってくるが、SNSであれば「不快だ」という同意の返事しか返ってこないのだ。

 そうすると、自分と同じ「不快感」を覚えた人が自分だけじゃない、思ったより多いことに気づく。しかも学識のある人や有名な人が賛同してくれたりもする。「自分の不快感」「我々の不快感」になり、それが「社会正義」になったりする。「ただしさ」がバックにつけば、直接クレームを入れる人も増える。

 以前もああいったイラストに不快感を覚える個人はいただろうが、散在していたために彼らの意見は社会で存在感をもつことはなかった。しかしインターネットは孤立した「不快感」をつなぎ合わせた。そして、「我々の不快感」とになり「ただしさ」が見いだされ、さらには集団で批判したりクレームを入れたりすることで、実際に社会に影響を与えることすらできるようになった。その成功体験は次の標的を探すことにつながる。

 もっとも多くの場合、彼らのうち実際に市井で「不快な表現」に触れたのはほんの一部であろう。今回の件でも他の件でも表現を批判している多くの人にそれらの表現を直接届け不快にさせたのは「これってふさわしくないのでは」とわざわざSNSでそれらを紹介した「お仲間」のほうである。

 

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