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安楽死、優生思想についての雑感など

 人によって観測範囲の違いはあると思うが、私が最近Twitterで見ない日がないワードが「安楽死」「優生思想」である。前者は難病の患者が「被害者」となった事件が、後者はある有名なミュージシャンの「冗談」が発端だったように思うが、どちらも「命」の問題であり、多くの人が意見を表明したり誰かの意見に反論したりしている。

 私がnoteで書いている記事は「反出生主義」と呼ばれる思想に関するものが多いのだが、「安楽死」や「優生思想」についても幾つか記事を書いているので、それを紹介した後、少し雑感を書き留めておきたいと思う。なお、さっきダッシュボードを見たら、優生思想の記事が月間ビュー数の上位に来ており、この話題が関心をもたれていることを実感した。

 私の基本的な考えとしては、自分の人生を続けるか終わらせるかの決定権は本人にあるべきであり、それゆえ年齢や健康状態に関係なく、苦痛を伴わずに死ぬことができるようにすべきだと考えている。人生は他人に勝手に始めさせられたものであり、解決が難しい様々な問題に苦しむことも多い。死後人間がどうなるか確実なことは誰も言えないものの、生命活動の停止=意識の消滅であるとすれば、死というのは苦痛からの確実な解放である。

 安楽死に対しては反対意見も多く、それらを二分すると「道徳的理由」「日本で導入することへの懸念」となると思う。前者は「いのちはたいせつ」というものが代表的であろうか。命が大切なのはそれはそうなのだが、命はバッテリーのようなもので、本当に大切にすべきなのは人生やQOLではと思う。

 ただ今回Twitterでよく見たのは、安楽死を選択できるようにすべきという考えに一定の理解は示しつつも、現在の日本に導入するのは危険なのではないかという懸念の表明であった。「死ねる権利は死ぬ義務に容易に変わりうる」「なぜあなたはまだ生きているのかという圧力がかかる」「人権意識や個人の尊厳の確立されていない日本では時期尚早」こういった意見があったように思う。

 残念ながら、これらの意見にも一理あると言わざるをえない。今日本に安楽死制度があれば、彼らの懸念が現実のものとなることは容易に想像できる。「お荷物」になっている難病の人や障害者、高齢者に対し、周囲から有形無形の圧力や期待がかからないとは私は言えないし、本人が周囲の思惑を慮る形で、あるいは世間体のために安楽死を選択するということもあるだろう。安楽死推進派も、このような事態は避けたいと思っているはずである。

 しかしながら、詳しくは「安楽死議論のすれ違い」に書いたが、安楽死推進派の中に少なからずいる、自分が安楽死を制度化の暁あるいは近い将来利用したいと考えている層にとっては、「安楽死が社会に与える悪影響への懸念」というのは到底納得できるものではない。なぜなら、もうすでに彼らは、死によって人生から解放されることを願う、検討するほどに今の社会に苦しめられているからである。既に社会によって苦痛を味わわされているのに、それからの解放もその社会のために我慢させられるなんて、どうして承諾できようか。

 安楽死が認められていなくても、先に挙げたような懸念のある日本社会が改善されるわけではない。安楽死の導入に対する懸念が出てくるような社会であることそれ自体が、安楽死を願うほどの苦しみを生じさせている面もあるのではないだろうか?安楽死が必要とされるような社会に安楽死を導入することが困難であるというジレンマである。

 結局、安楽死を法で認めたとしても認めないとしても、苦しむ人が出てくるのである。安楽死を認めれば、今苦しんでいる人は死という形で解放されるが、まだ死にたくないと本心で思っていても安楽死を選ぶ人が出てくるだろう。認めなければその逆である。このような関係であれば、実際に安楽死を法的に認めたり、制度の整備にかかわる政府としては、できるだけ動きたくないであろう。法や施設などの不備を追求されるのは政府だし、それに安楽死で不本意に死んだ人は「安楽死に殺された」だが、安楽死を認めずに死んでいった人は「救えなかった」である。同じ死でも後者のほうが批判は少ないであろう。

 そうは言っても政府も、このまま少子高齢化が進み、社会保障制度の危機が差し迫ってくれば、倫理的な見地からではなく「姥捨て」の必要に迫られる形で安楽死制度の検討をせざるをえなくなるだろう。これは社会保障費の削減を目的とするものであるから、認知症をはじめ介護が必要な高齢者や「生産性がない」とされた病気や障害者を対象として、あくまで建前は希望する人のみとして整備される。労働力は減らしたくないため、年齢や健康状態で制限がかかるだろう。この国で安楽死が実現するのは、倫理ではなく必要によっての可能性が高いのではないかと私は思ってしまう。

 最後に優生思想について少しだけ触れると、「優れた遺伝子」をもった人の配偶者を専門家などで決めるとして、そんなにうまくいくものだろうか?「優秀な遺伝子」には放っておいてもたくさんの人が集まってくるだろうし、その中で「優秀な遺伝子」がパートナーとして選ばれる可能性は高いだろう。結局は遺伝ガチャなのだから、わざわざ「ふさわしい」人をあてがったのに期待外れのこともあるだろうし、その子供のことを考えればむやみに期待しすぎるのもよくないと思う。それよりは、これは男性に限るのだが、多妻を認めて数打ちしたほうが、特筆すべき子供が生まれる可能性は高いのではと思ってしまった(もちろんこれも「冗談」である)。

 あの発言には多くの批判が集まっていたようだが、しかしながら現代社会においては、専門家会議で配偶者を決められるような優生思想はないものの、自由恋愛によって優生思想が推進されている面も否めないだろう。誰もが「優秀な遺伝子」を望むし、そうでないとされた人はお見合いの機会もないため子供を残さずに終わる。婚外子支援はこれを強化する、なぜならそれにより一夫一妻制の中でも、時間差で「優秀な遺伝子」のパートナーになり子供をもうけられるからである。

 もっともこれが「優生思想」なのか私は疑問に思うこともある。優生思想というのはそもそも「人類の遺伝的改良を推進して人類の発展に貢献する」というものである。例の発言はこの考えと近かったので「優生思想」そのものだろうが、現代でそんなことを考えてパートナー選びをしている男女はほとんどいないだろう。むしろ、結婚生活を充実させることや、子供によりよい素質をもってもらい有能かつ幸福に育ってもらう(そして利益を還元してもらう)ことが目的であるはずである。

 現代で「優生思想」と呼ばれているものは大抵、人類の発展というよりはよりミクロな目的のためのものであることが多いように思う。それもあって、あの発言には「ほんまもんの優生思想がきたー!」と思ってしまった。前々々世は19世紀イギリスの科学者だったのかな。

 安楽死にせよ、優生思想にせよ、これらが盛り上がるのはあまりいい話でもないとは思うが、せっかく盛り上がってしまったのだし、この機会にいろいろな人の意見を見れたらいいなと思っている。

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