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「結局あいつらは」

 Twitterでは日々いろいろな意見が飛び交っている。

 Twitterの観測範囲は誰しも自分と似たような考えの人をフォローしがちのために偏ってしまうのが世の常であるが、時々、自分がいつも観測している人たちとは全く別の考えを持つ人たちのツイートを見る機会があると、そこの乖離に驚く。

 最近は献血のポスターにも起用された某漫画のキャラクターが、海外でポリコレ的な批判を受けているという話があるようだ。私がフォローなどで観測している範囲では、ポリコレとはいうものの、体型や肌の色などで「原作はおかしい、これが正しい」と押し付けているだけじゃないかという批判が主であった。キャラクターの身体を傷つけるようなイラストもあったようで、そこまで憎悪をたぎらすのかと引き気味の反応だったように思う。

 一方でポリコレ擁護派とすれば、体型や肌の色を変えるのは他の二次創作でもあることだし、グロテスクな表現だってあるじゃないかという意見だったように思う。いつも表現の自由を支持しているならこういうのも支持するべきだということであろうか。さらには、それら批判された海外の「ファンアート」は、「正しさ」を押し付けようとしたものでも憎悪によって描かれたものでもないという主張で、それらの批判は間違った日本語翻訳によるポリコレ批判派の一人相撲じゃないかという話だった。(これらのツイートは記録をしていなかったのですべてが正確ではないかもしれないが、このような趣旨だったと記憶している。)

 同じ問題でもこんなに異なったところに着地するのかと思ってしまった。ポリコレに批判的な人たちの中では、この話は海外のポリコレ信者が文化の多様性や原作者や他のファンへの敬意を欠いて、「正しさ」を押し付けようとしたという話になっている。むしろ彼らが「ポリコレ的な正しさ」以外を認めない狭量さが明らかになったという論調もあっただろう。

 一方でポリコレに親和的な人たちにとっては、批判された海外のファンアートは単なる二次創作であり、それを間違って解釈したポリコレ批判派が悪いという話に落ち着いているようである。

 私には発端となった海外の「ファンアート」を確認しに行く気力はないし、ちょっと苦手な表現もあるらしいので、どちらが正しいのか、キャプションが原文でどうだったのかをここで検討はしない。今回は、それぞれの派で様々な意見が交わされた結果、それが平行線のままにそれぞれでまとまり、「結局あいつらはわかってない」みたいな見方を強化して終わったんだなあという、それだけの話である。

 TwitterをはじめSNSでは自分と同じような考えの人たちでまとまりがちというのは前から指摘されていることである。反対意見も、その矛盾や破綻を指摘・論破されるものとして流れてくることが多いように思う。観測範囲ではこの話はこういう結論になったんだなあと思っていても、少し離れたところでは全く別の結論になっていることもあると実感する出来事であった。

 最後に少しだけ、例のキャラクターの話について感想を述べると、二次創作は著作権者からNGと言われない限り自由だとは思うが、「こっちが正しい、こうあるべきだ」と原作を否定あるいは修正するようなものは敬意を欠いていると思う。そんなにオリジナルに異議があるのなら、自分で一から作ればいいのではと思ってしまう。

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