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未だ生まれ出でざる者の権利

 先日Twitterにこういうリンクが流れてきた。

 リンク先からたどっていただければと思うが、この方は幾つか反出生主義に関して投稿されているようで、結論としては反出生主義に賛同しないという立場のようだった。反出生主義の反論には感情的になっているものも見受けられるが、こちらの方の文章はそういうこともなく、反出生主義に賛同しない人がどのように考えているのか興味深く拝見した。

 で、リンクの記事で問題になっているのが同意の問題である。簡単に言うと、大小はあれど必ず苦痛の伴う人生を本人の同意なく始めさせることはよくないのではないかという出生批判であって、反出生主義の立場では「生まれて後悔する人はいても生まれずに後悔する人はいない(なぜなら命の発生前に意識は存在しないから)」として、生殖しないほうがよいとしている。

※余談だが、「生まれていない人間」というと胎内にいるが誕生前である人間とそもそも受精すらしていない人間の両方が含まれてしまうように思える。このテキストでは胎児の権利の話ではなくまだ受精すらしていないがこれから生まれるであろう「人間」の話をしていると断っておく。

 リンクで紹介したこの方の投稿では、まだ生まれていない人間が「意思」を持った主体ではないので自己決定権がなく、そのため出生に同意は必要ないという結論であった。投稿者は元司法試験受験生ということなので、法律上はそうなのであろう。意思を確かめようがない人に自己決定権を認めることはできない。

 だが、それでいいのかと思ってしまう。彼らまだ生まれていない人類は現在は法律上権利主体として認められないとはいえ、いずれ生まれてくるのであり、その時にはもう生まれたくはなかったと言ってもどうしようもないのである(安楽死もないならなおさら)。生殖は一種の「ガチャ」のようなものだが、その結果を受けるのは親もそうだが主には子供本人である。自由意志が確認できない状態で勝手にどこかへ連れ出すことは既に生きている人なら拉致や誘拐であるが、まだ生まれていない人の場合はそれが問題にならないのもおかしな話に思える。

 これは民主主義にもある問題で、まだ生まれていない人たちの(それに加えまだ選挙権を持たない未成年者も含めて)声というのは直接は反映できない。どんなに「正しい」ことを言っても票がなければ勝てないので、票を持っている人たちが投票してくれるような政策・戦略で勝負することになる。現代の少子高齢化社会はシルバー民主主義と呼ばれることもあるが、それと同じようなことが既に生まれている人たちとまだ生まれていない人たちとの間にも起こっている。彼らまだ生まれていない世代は、前世代の投票の結果をただ受けるだけである。

 結局「権利」というのは社会が認めないことには存在しえない。そして既に生まれてしまった人たちがまだ生まれていない人たちの「生まれない権利」を認めることは、社会=既に生きている側にはメリットがない。既に生きている彼らにはそのような権利を行使する機会はなかったし、次世代再生産に頼る社会では先行きが暗くても生まれてきてもらわないと困るのである。

 芥川龍之介の『河童』には胎児に今から生まれるか尋ねるシーンがあるそうだが、まだ読んだことはない。

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