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絶望の道

 世の中では「好きを仕事に」や「縛られない自由な生き方を」といったことを掲げて成功している人もいるが、それはほんの一部で、大方の人間は何らかの組織に所属して生計を立てていったほうがむしろ楽であろう、という話は時々目にするし、私もそう思う。輝かしい成功の陰には、そうなれなかった沢山の人たちが不可視化されているのだろう。

 ただ、そうは言っても、公務員や会社員が楽かと言われればそうとも限らないわけで、組織で働くことにうまく適応できなければ、そこから外れた別の生き方に憧れるのも無理のない話である。冒頭で紹介した記事には「確実性の効果」という認知バイアスの話が取り上げられており、人間は「ほぼ確実」に被る大きな損失を免れるためには、(冷静に考えれば)割の合わない賭けもしてしまいがちであるという。会社なり役所なり組織で働いているうちは生活は保障されているだろうが、仕事がつらくそれがあと数十年続くのは耐えられないと思う人にとって、もっと「自由な」生き方へシフトするというのはさぞ魅力的に見えると思われる。

 生物として見れば、危機を前にただ受け身でいるよりは、いちかばちかでもそこから脱しようとするほうが、生き残って子孫を残す確率が高くなったのだと思う。ただそれは「いちかばちか」に勝った個体が子孫を残せたというだけであって、その本能に従えばよりよい未来が約束されるというわけではない。仕事の場合、組織の一員であったほうが安定した生活を送れる可能性は高いのであり、「確実性の効果」が働くのは仕方ないとはいえ、踏みとどまって今まで通りの生活を送ったほうが大多数の人にとっては得策なのだ。


 でもこの話、結構絶望的ではないか?

 仕事を辞めたいときそこには「確実性の効果」が作用しがちであり、組織に属して働くのが苦手なあなたでも、何らかの組織にいたほうが得策である可能性が高い、そうなのは頭ではわかっても仕事が辛いのは変わらない。もちろん仕事の辛さを緩和するライフハックのようなものはあるだろうが、それでも根本的な解決にはならない。

 例えれば、素足で砂利道を歩かされているとき、遠くに軽やかに踊っている人たちが見えて、そちらに向かおうとするが、道の外には先の見えないイバラの原が広がっているのだ。砂利道を歩くのは痛いが、イバラはもっと痛くて、しかもそこから抜け出せるとは限らない、多少痛くても道の上を歩いていたほうがよい、そういう話である。軽やかな人々のところに行くのを諦めて自分がこれから進む砂利道に目を戻したとき、そこに絶望を覚えない人はどれだけいるだろうか。


 砂利道を歩くのが辛くなった時、最大の救いとなるのは「もう歩かなくてよくなること」であろう。そしてその最も現実的な手段は現在においては「死」である。まあ死後の世界がどうなっているか確実なことは言えないのだが、意識が体というハードウェアありきのものだとすれば、死は意識からの解放である。

 個人的には子供に砂利道を歩かせたくはないので、生物としてはもうすべきことはない(人生が辛いなら同じように思う人は多いのではなかろうか)。道を進んでもそこから外れても救いのない世界なら、早く歩くのを止めたい。歩き続けたい人を否定はしないが、しかし、歩くのを止めたいという思いも同様に尊重していただきたい。

 残念ながら、先ほど最も現実的と書いた「死」でさえ、そこに到達するのは容易いことではない。他人の都合で砂利道を歩かされることになったわけだし、それを自ら苦痛なく止める手段は用意されてしかるべきだろう。それは「安楽死」と呼ばれるが、しかし砂利道を歩く、あるいはイバラの向こうで踊る人も含めたあなた以外の大勢にとって、砂利道を歩く人が減ることはあまり喜ばしいことではないため、その実現は困難である。

 あれ、やはり絶望的な終わり方になってしまった。

 

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