夜の街

 最近報道などでたまに出てくる言葉に「夜の街」というのがある。アルコールを主に提供する店だったり、あるいは「接待を伴う飲食店」(ニュースではこういう言い方になるのだと思った)だったりを指すものだろう。ただ、そういう店に縁の遠かった僕にとって、夜の街と聞いて連想するのは深夜の住宅街である。

 数年前まで僕は大学生で、実家を出て一人暮らしをしていた。大学の近くにアパートを借りて住んでいたが、アパートは住宅街の中にあったので、大学から少し離れると夜はとても静かだ。一人暮らしの大学生の常として、生活リズムが無限に後退していくことが知られているが、僕も例外ではなく、深夜の1時や2時に帰宅することも珍しくなかった。朝帰りも何度かある。

 夜まで出歩くと言っても、お金もそうあるわけではないし、もともと一般的な「夜の街」的消費には興味がなかったので、外で夜更かしするときは大抵サークルの部室か、友人の家だった。ひとしきり楽しんだあと、それぞれの家へと散らばっていく。寝静まった住宅街を自転車で通り抜けていく。僕の自転車は入学と同時に買ったが、卒業の半年前に壊れてしまったので、残りの半年は徒歩で過ごしたのだが。

 大学生が多く住んでいる地域と言っても住人の大半は一般的な生活サイクルの人なわけで(別に大学生だからといってみんな朝に余裕があるわけではない)、2時も過ぎると灯の消えた家がほとんどで、本当に静かだ。たまに同じような夜更かし学生の声が聞こえるくらい。

 家も一人暮らしだからさぞ静かだろうと思われるだろう。まあ大抵はそうなのだが、僕の場合、時々、いやもう少し頻繁に、隣室の方がパートナーを連れ込んでおられた。大学生の男女が夜、同室に2人いれば共同作業が発生するわけで、アパートの薄い壁ではその音が聞こえてしまう。残念ながらこちらの部屋ではそういうことがなかったので、隣の人は自分たちの生活音がどのように聞こえているか知る機会がなかった。音量としては大したことないのだが、眠るには気になるのだ。

 一度、2時くらいに帰って、シャワーを浴びて寝ようとしたら、隣からいつものように聞こえてきた。そのまま眠って翌朝8時くらいに起きたら、まだ同じように聞こえていたのでびっくりした。さすがに途中寝たんだとは思うが。隣の人とはまともに顔を合わせることなく卒業したが、おそらくは割と地味目な人だったと思う。大学ですれ違う普通の人たちも、それなりの割合でこういう生活をしているのだと思うと、少し怖くなった。

 だいぶ話が脱線してしまったが、まあそういう営みが建物の中で行われていようと、道を歩く分には聞こえることはない。人とすれ違うこともまれな深夜の街はとても静かである。静かなのは、僕が一人で歩いているからでもある。

 ある日、繁華街で飲み会のあった後、酔いつぶれた友達をタクシーで送っていった。友人のアパートから僕の住んでいたアパートまではそれなりに距離があったが、節約のため歩いて帰った。その帰り道の途中には結構有名な観光地があって、昼間は多くの人がいるのだが、深夜は本当に静かだった。何件かの夜遅くまでやっている店の光がぽつぽつと落ちる、長く緩やかな下り坂をひとり歩いたのを、よく覚えている。

 これはまた別の日の話で、その日も結構遅くまで遊んで帰ったのだが、家に帰る途中、細めの道を歩いていたら、目の前の空につーっとオレンジ色の光が横切ったのだ。流れ星にしては大きく、先頭に砕けるような形が見えたため、何か人工物が墜落したのではないかとも思ったが、どうやら「火球」という明るい流星だったようだ。なんとなく、夜更かししてよかった、たまたま上を向いて歩いていてよかったと思った。

 最近はあの頃に歩いたり、自転車で駆けたりした道や景色のことを不意に思い出してしまう。夜の景色だけではなく、昼のこと、いつも信号を待っていた交差点、猫がたまにいる窓、結局入る機会のなかった飲食店、わざわざ言葉にすることが難しい日常の一コマも。大学生の時はホームシックには全く縁のなかった僕だが、今になってこういう感覚なのかなと思っている。僕の魂は今も、あの夜の住宅街で、次の火球が流れるのをずっと待っているような気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?