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自分は、何か残せるのだろうか?

上の写真の花は、
多分ニリンソウですね。
花びらの裏が、ほんのり桃色ですね。
春の花ですね。
お借りしました。

さて、
気持ちがこんなモードに入り込んでるわけでもないけれど。
10月には、
息子たちとランチができそうで。
そんなことが、
何よりの幸せな時間だと、
改めて感じられるから。

そんなことを思っていたら、
どんどん遡って。
幼い頃の自分と対峙したり、
遠い昔に、
あんな山間の開拓民のような生活の中で、
両親の下に生まれたことも。
辿ってみれば、
繋がっていて。
そして、
偶然でもなくて、
意味があったのだろうか?
そんな気がしてきた。
長女でもなくて、
末っ子でもなく。
真ん中に生まれた自分は、
戦後の時代にしては、
「心の自由」を感じながら、
のびのびと成長することができて。
一方では、
独特の集落での生活から、
多くのことを学んだことも、
今の心の原点になっていて、 
支えられていることも確かで。
不思議だなぁと思える。

さて、
結婚して、
息子たちを育てて。
不器用ながらも、
精一杯子育てを奮闘して。
伝えられたことは、あったのだろうか?
ふと思った。
自分の考えを貫こうとすると、
接する人には違和感を持たれてしまうし。
それでも、
自分なりのブレない何かが、
ずっと変わらずに、
自分を導いてくれた気もするし。

いつだったか、
長男たちとの会話の際に自分が言ったこと。
「母さんは、スキンシップが苦手で、
さっぱりした子育てだったよね」
反省も込めて出たひとこと。
そうしたら、
長男が言ってくれた。
「喘息の時、夜ずっと背中をさすってくれたよね」
「嬉しかった」

思いがけないことを、
覚えてくれていたことに、
恥ずかしかった。
夫が仕事の日曜日は、
2人を連れて遠足と称して、
ちょっと遠い公園まで歩いたことも。
若かった。
自転車の前と後ろに乗せて、
買い物に出かけたことも、
若かったから。
不器用ながらも、
精一杯注いだ自分なりの愛情も。
彼たちには、
繋がっているのだろうか?
勿論、
自分だけてはなくて、
夫殿の父親としての部分も。
夫殿は、
子どもが幼い頃は、
たくさん遊んでくれた。
思春期になったら、
スコーンと退いたかのように。
本人に任せる、
そんな側に立っていたが。
思春期は、
母の自分でも、太刀打ち出来ないことも。
手探りだった。
そんな時でも、
ブレない部分を伝え続けられただろうか?
二男からは、
批判めいた発言もあるけれど。
息子たちにとって、
100%の存在じゃなくても、
どこかで教えられたことがあったら。
それでいいと自分に言い聞かせる。

noteに書いていることも、
時々送っている。
そんな中から、
「母さんは、こんな考えなんだ」
そんな風に捉えてくれたら、
何よりもありがたい。
子どもは、
スクスクとは成長しないことを、
実感したし、
自分も、
父に反抗していた日を思い出す。
それでも、
理解したり、反抗したりを、
繰り返しながら、
今を迎えているのかな。
父も不器用ながらも、
人としての生き方を教えてくれていたこと。
見送ってしみじみ思うのだ。

何が残せるかなんて、
自分にはないのかもしれないけれど。
息子たちと過ごした時間や、
葛藤した時間。
そのことは、
事実なのだから。
昨日のあるドラマ
「真実は幾つでもあるはず、
でも、事実はひとつなのかも」
分かったような、
分からないような。
息子は、
孫と良く向き合っている。
そんなに?
ってほどに感じる。
いつも言っている。
「孫が息苦しくならない程度にね」
ちゃんと、
あなたの行動を見て、見習おうとしているのだから。
後は、
考える力や生きる力かもしれない。
そんな力を養ってあげるのが親なのかも。
野生の生き物のように。

ありがとうございました。

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