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麦の秋(季語が連れていってくれた場所)


俳句ポスト365に示された兼題、「麦の秋」。

「麦の秋」であり「麦秋」を調べると、歳時記では「五月下旬」、広辞苑なら「麦を取り入れる頃」で「陰暦四月」(今年だと5月20日から6月17日)、とあります。

元々は二十四節気「小満」の末候(七十二候)の「麦秋至」からでしょうか。今年でいえば小満の期間は5月21日から6月5日まで、「麦秋」についていえば、6月1日から5日くらい、でしょうか?

歳時記や辞書、暦から、機械的に期間を探っていくとこのような感じです。

一方、今回、調べるなかで、七十二候とは、植物や動物の様子であり自然現象から季節の変化を捉えたものだとも、農業を営む上での目安にもなってきた、そんな話に触れることができました。

このことを考えると、「麦の秋」とわざわざ「麦」や「秋」を使い、時候として捉えていることは、古くから麦が身近な作物であり、ある特定の季節やタイミングに熟して刈入れ時になることを、経験的に多くの人が知ってたのではないか。だからこそ、時候の季語となり得たのではないかと考えました。

タイミング、と書きましたが、麦の秋をその前後の気候と比べて考えてみると、梅雨の手前というタイミングでしょうか。そこで、「麦の秋」を前後の気候と比較し、メモを取りました。メモの内容を晒しすぎると、句を作る上で手の内をばらす結果となりますので、差しさわりのない程度に3つばかりお見せするようにします。

・晴天の日が多く、時には熱中症への懸念が出てくるくらい最高気温が高くなる
・湿度は低めで、暑さも家の中や木陰に入ればしのげ、カラっとしている
・朝や夜には冷え込みも感じられもするが、春に比べれば冷え込みは弱く、むしろ日中の暑さと比べて心地よく、爽やかな心地がある

もちろん、もっと沢山特徴はあるかもしれません。

今回気づいたのは、メモの内容ではなく、日ごとに感じた暑さや寒さをメモしていく手段そのものです。こうすることで、もしかすると、時候の季語を実感できるかもな、と思った次第です。


さて、今回、兼題を見て実際に麦畑を訪れた方もいるかと思います。麦が熟してなくとも、麦畑の景色を見て句のアイディアとできないか?と。
自分もその一人でしたが、浮かんだ場所は、故郷からほど近い、仙台市東部にある荒浜地区でした。

この地区は東日本大震災の津波で甚大な被害を受けました。例えば、震災遺構荒浜小学校という場所があります。


机などは撤去されていますが、一階の教室などは当時の様子を窺えるままに展示されています。

 

校舎の二階に上がり、戸や棚を見ると、脛くらいの高さまで茶色くなっています。これは津波が押し寄せた形跡です。


津波。海が荒々しい奔流となって、人の作った家や自動車、あるいは人そのものを流して壊し、海と海が運ぶ瓦礫が大地を覆いつくす。当時、そんな光景を映像で見た方も多いかと思います。また、実景を見ざるを得なかった方も沢山いたかと思います。

津波のもたらした被害はこれだけではありませんでした。田畑に流れてきた瓦礫を撤去、海水を被った土地から余分な水分がなくなり、耕しても、海の塩分は残ってしまっていて、米が育たなくなってしまった……塩害です。
荒浜地区を含め、東日本大震災において塩害の影響を受けた田圃は20000haを超えたといいます。田圃を0.1haとした場合、20万枚分の面積が塩害の影響を受けました。
比較対象はあることでしょう。しかし、自分にとっては田圃一枚を目測し、「この広さの20万倍か」と思うと、ゾッとする面積です。

津波の塩害について、たっぷりの雨が降り、排水機構がしっかりしてる場合でも自然回復には半年から2年半ほどかかるといいます。その期間、水稲を育てるのを我慢して米作りを再開するのも一つの道かもしれません。一方、いつか再び津波による塩害があった時に、早めに農業を再開するためにも、土地の除塩の仕方を探るとともに、塩害に強い作物を探るのも一つの道です。

震災があってから何年目だったかはもはや覚えていません。しかし、ニュースなどで水稲よりも塩害に強い作物を探っている方や企業が報じられることがありました。
塩害に強いトマトの開発をした方達。
元々塩害に強いとされる作物に転作をして活路を見出だそうとした方達。(一例として、こんなページを拾ってみました Taro-rp【H24修正】3-(3)(4)(5) (maff.go.jp)
そんな中、荒浜小学校近辺で、麦への転作が行われた、そんな映像を見た覚えが確かにありました。

「麦の秋」から、「荒浜」や震災遺構「荒浜小学校」を思い浮かべた経緯はこんな具合で、校舎の北側には確かに麦畑が広がっていました。


夏井先生が活躍されるプレバトの俳句コーナーでは、年月の積み重ねもあり、梅沢富美男さんをはじめ、何人かの方々が「永世名人」の肩書きをお持ちになられています。
その内のひとり、村上健志さんは、「俳句が手を取っていろんな所につれていってくれる」と名言を残されています。

今回、「麦の秋」が兼題として取り上げれ、荒浜地区を思い、村上さんの言葉に勇気付けられるように、やっと荒浜小学校を訪れることができました。

私にとっては、落ち着いて見られない禁忌の地です。

私の原風景には、風にさんざめく稲の波があります。中学校の屋上から東を見れば、稲穂のさざめきが耳に残り、確かな黄金の波が目に映る、そんな場所に学校はありました。

高校生以降は田圃の風景をジッと見ることもなく、しかし、無性に海を見たくなる、ハゼでも釣りたくなる、または、アルバイトのための道を行き来する、そんな時に、田圃道を通っていた筈なのでした。

当たり前にあった風景。
その価値に気づかなかった風景が、自分の記憶であり、人格を構成する一部となっていたのかもしれません。

2011年3月11日。東日本大震災。
それから一月も満たない頃、私は荒浜を訪れたことがあります。荒浜地区辺りから、名取市閖上くらいまで、途切れ途切れに南下し、車で見て回ったのです。

電柱が折られ、抉られた道路。
流された家屋。そこに貼られた、人名探査済みを示す「✕」印のテープ。
本来は田圃だったはずの泥地。
どこからか流されてきた、泥地のど真ん中にある、エンジンルーム剥き出しの自動車。
外壁の二階部分まで泥の付着した校舎。
瓦礫撤去のための重機とそれに関わる作業員はいるが、地元の人は見かけられない。
瓦礫と泥。
渇いた泥は砂埃となり巻き上がる。

荒れた地を、文字にして書けば書くほど、書きたりなさが増える惨状がそこにありました。

その際に同行した妻は、私が変に笑っていて怖かったと言います。人が壊れるってこういうことか、と。

そのような地ですから、幾年重ねても、落ち着いては見られない地だろうと思っていたのです。
また、仙台市東部に実家があるとはいえ、仙台南部道路という有料道路より西(この道路と東部道路が津波を塞き止めた)に実家がある者としては、実家そのものは津波の被害を受けてないこと。自分自身が震災当時、市の西部に住んでおり、生活基盤が津波の地に無いこと。
実家を出る前に比べ、地理的にも心的にも被災地から縁遠くなっており、そんな身で荒浜地区を見に行って良いのだろうか?と。
(名取市閖上地区の方が馴染み深いこともあり、そちらには毎年一度は足を延ばしていたのですが)

反面、震災遺構としてちゃんと整備された荒浜小学校にはいってみたかった。今回の兼題の「麦の秋」が発表されたタイミングも、3月20日で、丁度良い頃でした。

村上健志さんが「俳句が手を取って」というなら、自分の場合は「季語が手を取って」震災遺構に行けた、そんな話です。

(震災遺構 仙台市立荒浜小学校)



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