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季語「山笑う」

1 はじめに

今回の文章は、過去に書いた「山眠る」と内容が重複する箇所があります。そちらも併せて読んでいただくと、うれしい限りです→季語「山眠る」|千代 之人 (note.com)

2 山の擬人化季語4きょうだい

時を遡り11世紀。
中国は北宋時代、郭煕 - Wikipedia(かくき)という山水画家がいました。中国の絵画史の中の重要人物で、日本の水墨画(有名どころでは美術や歴史の教科書にも出てくる雪舟 - Wikipediaの絵など)にも、直接的でなくとも影響を与えた人物かと思えます。

さて、郭煕の画論を息子の郭思(かくし)がまとめたものが、「林泉高致集」です。
このうち、「山水訓」という編には、

「(1)眞山水之煙嵐、四時不同、(2)春山澹冶而如笑、(3)夏山蒼翠而欲滴、(4)秋山明淨而如粧、(5)冬山慘淡而如睡」(大修館書店「大漢和辞典」、「春山」の項による)

という一説があります。なお、カッコつき数字は私が便宜上つけたものです。以下、(1)~(5)を訳していきます。

(1)絵ではない、現実の山河の山霞は、四季を通して同じではない。
(2)春の山霞はゆっくりと揺れ動き、静かであり、とけ、笑うようである(山笑う)。
※「澹冶」の部分について「淡冶」としている資料もある。この場合だと、「あっさりとなまめかしい」(大漢和辞典)となる。
(3)夏の山の山霞は青緑。草のように青く、青黄色く、滴ろうとしているように見える(山滴る)。
※「欲滴」を「如滴」と記述している資料もある。これだと「滴るようである」、という意味となる。
(4)秋の山霞はけがれなく清く、白粉で化粧し、よそおっているようである(山粧う)。
※「粧」が「妝」となっている資料もある。「粧」は「妝」の俗字体。ただし、より白粉で化粧をしているという意味が強く感じ取られる。
(5)冬の山霞はうす暗く、居眠りしているようである(山眠る)

ネット社会というのはありがたいもので、リンクフリーのサイト「小さな資料室」(http://sybrma.sakura.ne.jp/)内の「資料318 『林泉高致集』山水訓」(318 『林泉高致集』山水訓 (sybrma.sakura.ne.jp)http://sybrma.sakura.ne.jp)

に全文と思しきものが掲載されていて、(※)で記した部分を参照しました。

このように書くと、「山笑う」「山滴る」「山粧う」「山眠る」が、山の擬人化季語きょうだいだと分かります。
また、「二辺とその間の角度が等しいと三角形は合同」「三辺の長さが同じとき三角形は合同」……と覚えるよりも、「三角形の合同条件:三辺の長さが同じ、二辺とその間の角度が等しい、一辺とその両端の角度が同じ」みたいに覚えたように、この四つの季語も、「林泉高致、山の擬人化季語:笑う、滴る、粧う、眠る」みたいに、四つとも一気に覚えた方が効率的かと思えます。

一つ覚えればほかに三つも季語を覚える機会をくれる季語だから、なんとお得な季語かと思える。「そんな一面のある」のが「山笑う」です。

3 気になった箇所(山笑うの視座)

山水訓は、「君子之所以愛夫山水者其旨安在」と始まります。これをひと塊と捉え「君子の夫れ山水を愛する所以は其の旨安くに在るか」と読みます。すると、「学徳のある立派な人が、山水:山河の風景(もしかすると、その絵かも)を愛する理由、そのわけ、趣旨、あるいは考えはどこにあるのだろう?」という意味になるかと思います。ここから、君子が山水(画)を好む理由が述べられます。

この上で山水画についての理論(画論)が展開されていくのですが、部分部分に俳句にも役立ちそうな箇所があるのです。

ただ、全文の中から掘り起こすと、年度末~年度初めの多忙さに追い詰められている今の自分には大変すぎるので、先に引用した「眞山水之煙嵐、四時不同」より前の部分から、自分の気になった三ヶ所だけを取り上げます。引用した部分については太字で書きますが、そこに続く「:〇〇〇」の部分は私のガバガバな意訳です。


・人之學畫無異學書:絵を描くことを学ぶことは、書物から学ぶのと同じことである。

絵でも詩歌でも、ファッションでもスポーツでも、一見すると、その道に秀でた人の特別な感覚や感性、「センス」に目が行きがちです。
しかし、絵画も俳句も、本屋に行けば入門書が売られていることから分かる通り、センスだけでなく、ある程度系統立てられた基本があります。
基本があると知らないで、作品だけを目の当たりにすると、「これは自分には理解できない世界だ、高尚で近寄りがたいものだ」と思いがちです。
「でも、そうじゃないんだよ」と、郭煕は言ってる気がします。
たとえば、兵法や哲学、礼儀作法といった、ある程度系統立てられた基本や技術が文章化されているように、山水画についても、センスではない基本や技術があるのだよ、と。

この辺、俳句もそうだと思いませんか?


・身即山川而取之則山水之意度見
:山水に身を置けば、山水の意味が分かる。

意訳もいいところですが、これが一番大事かなと。
山水画を描くなら、山谷の景色の中に、身を置いてみなさいというこの一文、大変共感を持てます。
大人数でも少人数でも、自然や風景を感じとる、季語の現場に足を運ぶことで、そこから詩の種を見つけることに繋がるのだと。要は吟行であり、それの大切さが説かれています。

・眞山水之川谷遠望之以取其勢近看之以取其質:絵画でない本当の山や谷を、遠くみればその時々のありさまを見られるし、近くで見れば山や谷の質感を見て取れる。

これって、遠近感についての言及ではないでしょうか。
また、自分としては「山笑う」の視座がどこにあるのか考えるにあたり、結構重要な部分だと思いました。
実際に山谷に行き、手前に見える川の流れや岩肌を細かくスケッチする。そして遠くを見ると、おおまかな形勢が見られる。季節ごとに違う形勢が。
山水画を少し調べてみたところ、作品は実際の風景画ではない場合も多いようです。
例えば、地点Aにおける風景の手前に、実際には無い大きな岩をドンと細かく配するなど、切り取りと再構築が為されていたりします。ざっくり言えば編集マジックがされているのです。

ただ、編集マジックをするためには、実際に山谷に入り、近くも遠くも見ての風景をひとまず描かないといけないのではないか?地点Aの風景に組み込む大きな岩を、描くだけの技術がいるのではないか?
そのためには、実際に山水画の現場に行くことがいかに大事か。

そして思うのです。
山に行った上で見た近景を描きます。細かくスケッチしたくなる岩、川の流れ、あるいは釣り人などを見るとします。
その視座から、高い山の様子や山霞の様子を伺うとき、手前から遠くへ、視点の移動があります。
もしかすると、遠くから手前への視点の移動もあるかもしれません。
視点の移動と遠近の対比。
眞山水之川谷遠望之以取其勢近看之以取其質からは、そんなことが窺えました。

さて、この文章の次は、眞山水之雲氣四時不同とあります。本当の山と谷の「雲気」は四季を通して同じものではない、という意味です。
「雲気」とは雲の有様のことですが、郭煕がこんなことを言わないといけないのは、きっと、歴史の中で凡作であり下手とされて消えていった山水画には、どの季節の雲気を描いたものか良く分からないような出来のものが沢山あったのではないかと思います。実際に現場に行かず、山とか谷の有様はこんなもんだろ?とステレオタイプな絵が蔓延していたのかも、などと思います。
そして、雲気の季節ごとの有様を説いたうえで、先に引用した「(1)眞山水之煙嵐、四時不同煙嵐」へと文がつながっていくのでした。

山水訓の、ここから先の文章について、興味を持って調べてみた方は、是非ご連絡ください。

4 さいごに

職場での異動があったり(50歳手前だと、異動に際して覚えるべき様々なことをなかなか覚えられないことに驚愕したりもしました:老化ですね)、町内会の班長が回ってきたり、その他もろもろの理由で、季語深耕の文はおろか、俳句を読んだり詠む行為になかなかつながらなかった体たらくな今回でした。

気持ちの上で湿っぽい気持ちの中、どうにか「山笑う」の句を二句送りたいと思います。

先に書いた通り、独自に「山水訓」を訳してみた方がいたら、是非ご連絡ください。

では、また。

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