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季語深耕「夜長」

1 唱歌「虫のこえ」

 兼題「夜長」を目にしたとき、ふと思いました。「季語としての夜長という言葉は知らなくても、この単語そのものは知っていたな」と。

 記憶を掘り下げていけば、五十路に近い自分にとっては遥か昔のこととなります。小学校の低学年の頃でしょう、40年以上前に「虫のこえ」なる歌に出会ったのは確かでした。

あれ松虫が 鳴いている
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん
あれ鈴虫も 鳴き出し
りんりんりんりん りいんりん
秋の 夜長 を 鳴き通す
ああおもしろい 虫のこえ

 ああ、そうでした、娘が小学2年生になったとき、音楽の教科書を見せてもらうと、未だにこの曲が掲載されていて、驚き、感動したものでした。確か、教科書のメーカーは教育出版だった気がします。

 さて、この歌の夜長を季語として歌詞を見てみたいと思います。

 「夜長」について、角川大歳時記によれば「秋の夜が長く感じられること」、「秋は暑い夏を越して涼しい夜が長くなるのが嬉しい」とあります。
 この記述から言うと、先に示した「虫のこえ」は喜びいっぱいの歌詞となります。
   歌いだしの「あれ」とは、驚いたときや何か不審に思った時の感嘆詞です。詞の中の人は鳴いている虫の音に「あれ」と驚き、それがすぐマツムシだと察知、鳴き声を人間語(ちんちろちんちろ、、、)にしています。そして、スズムシが鳴きだせば「あれ」と再び驚きつつ、すぐにスズムシと気づいて人間語にしてます。
 この上で「秋の夜長」と季重なりの表現をしつつ、長き夜を鳴き通す虫の声を「おもしろい」と言っているのです。
 詞の中の人は、涼しい夜が長くなるのを嬉しがっている上に、そんな夜を「鳴き通す」虫の声が「面白い」というのだから、さぞ喜びいっぱいの夜を過ごしているのだろうし、多幸感に包まれ眠れることでしょう。
 そして、この詞の中の人は、マツムシやスズムシの鳴き声を聞いたときに、「夜長」、つまり、夜が長くなったことであり、涼しい夜の時間が伸びたことが嬉しかったのでしょう、となります。

2  夜が長くなれば夜長?

 さて、夜長を歳時記で引いてみましょう。角川大歳時記によれば「秋の夜が長く感じられること」。「感じられる」というのは、詠み手の主観が大いに混じります。
 では、客観的にはどうか?
 日の出から日の入りまでの時間がもっとも長い日、つまり夏至を境に昼の時間は短く、夜は長くなっていきます。
 今年・2023年の夏至は6月21日でした。私の住む仙台では、日の出が4:13、日の入りが19:07で、日長は約14時間50分でした。
 これが、秋分・9月23日となると日の出が5:24、日の入りは17:33。日長は12時間9分弱となります。3か月くらいで2時間40分程度日の出ている時間が違うのですから、「夜が長く感じられる」瞬間はどこかであるのではないかと思うのです。

 個人的なことを書けば、子どもの夏休みの終わりで「昼が短くなった、夜に生るの 早くなった」と感じることは良くありました。子どもが小学生だった6年間、夏休み前日には「夏休みまで頑張ったね会」、夏休み最終日辺りには「夏休み明けも頑張ってね会」を自宅で行ってきたものでした。ちょっとしたご馳走を子どもに作ってやり、一緒に食べ、ささやかに宴会をしていた我が家。会の中では手持ち花火をするのが恒例で、概ね18時前から会を初めて19時ころに花火タイムが来るのでした。
 「夏休みまで頑張ったね会」は大体7月20日頃にやっていました。今年だとこの日の日没は18:57、花火タイムの19時は、日は隠れたとはいえ、まだ明るさを感じられる頃合いです。これが、「頑張ってね会」の日、大体8月24日頃となると、日没は18:19、花火タイムの19時ころには辺りは真っ暗になっています。花火のラストの最後に線香花火を眺めながら、「夏が終わるね」と親子でしんみりしていたことも何度か・・・・・・

  個人的な例を書きましたが、確かに、私は日が短くなり夜が来るのが早くなったと感じてます。しかし、前段の内容を句にするとなると、「夜長」よりは「夏の果」の傍題「夏惜しむ」(夏休みの終わりが、暦の上では秋なのは承知の上で)の句が出来そうです。
  こうなると、夜の長さだけが「夜長」の要素ではないと感じられます。

3  夜長の要素・表

  「夜長」について、大歳時記を読み進めると、「涼しい夜が長くなるのが嬉しい」とあります。新歳時記では、涼しい夜とは「読書や夜なべ仕事のとき」とまで言い及んでいます。
    さて、「涼しい」という感覚です。エアコンの適温は28℃だという話はきいたことのある人も多いでしょうし、一律に28℃だというのが間違いだという話を聞いたことのあも多いことでしょう。大体に置いて、寝苦しい夜とされる熱帯夜、夜間の最低気温が25℃以上の夜のことです。もしもエアコンの適温が28℃なら、夜間に25℃以上あっても快適に眠れる筈です。
   温度以外に涼しさに関わってくる要素としては、前日比(猛暑日が何日か続いた後に最高気温が31℃という日がありましたが、感覚は恐ろしいもので、真夏日なのにその日は涼しく感じてしまった。ある意味恐ろしい経験でした)とか、風とか、湿度などがパッと考えられます。この中で、温度と湿度の兼ね合いについては、東洋経済オンラインがこんな文を上げています→「28℃じゃ暑い…」エアコン設定は何℃がいい? 日常生活の本音に、ダイキンが出した「答え」 | ダイキン工業 空気で答えを出す会社 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)
 つまりは、「夜が長くなったと感じる時はいつか?」という要素にプラスして、「涼しさが嬉しいと感じられる夜」という要素が必要です。
    夜が長くなったと感じた、合わせて、涼しいのが嬉しいと感じた。

 それはどんな時か?
 何をやっていたか、もしくは、夜の長さと涼しさを感じた上で何をしようと思ったか。
 
 取り合わせと言う点では、そんな視点で句を詠んでみると良いのかも知れません。

   こんなこともあり、どんな取り合わせがあるかなと、X(旧Twitter)でちょっとフォロワーさん達に伺ってみました。
  「○○の秋とは良く言いますが、これが『夜』なら何の秋?」、、、回答数は母数としては少ない数十人、かつ、俳句関連のアカウントからのお題でしたから、俳人目線の回答となったことでしょう。ですから、参考にならないかもしれませんが、圧倒的に秋の夜といえば読書、という方が多かったのでした。俳人は秋の夜に読書するのが鉄板の発想なのかもしれません。
     なお、読書以外は、食欲、芸術、行楽が選択肢でしたが、これらの選択肢を選んだ方々も少しはいらっしゃいました。スポーツもあっていいかもしれません。

4 「お隣さんを見てみよう」(夜長の要素・裏)

 俳句ポストで兼題が示されると、歳時記で「お隣さん」を見るようになりました。お隣さんというのは、兼題となった季語の前後にある季語のこと。今回なら、夜長の前のページには「秋の夜」、さらにその前には「秋の宵」が掲載されていました(角川大歳時記)。掲載順でいうと、「秋の宵」「秋の夜」「夜長」ですね。

 掲載順にいくと
 「秋の宵」→秋の日が暮れてまだ間もない頃。静寂なイメージ。立ちこんでくる闇の雰囲気も優しい。風が心地よい。これから夜長が始まる序章として、気持ちの余裕が感じられたりもする。
 「秋の夜」→秋の宵が更に更け、もう少し夜が深まった時間。月が冴えて虫も鳴いているが雰囲気としては静寂。静寂が心の余裕を生むせいか、夜長の情趣を色んな意味で味わえる。春の夜が官能的要素を含むなら、秋の夜はそれより知的なイメージ。

    宵、夜ともに「静寂」という文言が入ってますし、静寂の中で気持ちであり心の余裕が感じられると。言ってみれば、「夜が長くなった」ということを感じつつ、「静けさ」も感じ、そこから気持ちにゆとりを持って過ごすのが「夜長」ということ?と思ったりもしました。

 ここで自分としては違和感を得ました。
 「静寂」を「せいじゃく」と読んで、広辞苑で引くと「静かで寂しいこと」とありました。「秋の夜」を再度見てみると、「静寂が心の余裕を生む」とあります。私としては、静かさがあってそれが寂しく感じるのに、心の余裕が生じるとは理解しがたいのです。
 
 もしも「静寂」を「しじま」と読み、再び広辞苑を引くと「②静まり返っていること」とありますから(①は無言とか黙といった表記がありましたが、それは差し引きますが)、静まり返っている中で得られる心の余裕、と好意的にも捉えられますが、それにしたって、「せいじゃく」や「しじま」から心の余裕が生まれるかは、その人次第ではないでしょうか?

 例えば、私だったら。文章ではこうやって饒舌ですが、実際の生活では無口な方です。結婚以前から妻の話の聞き手に回ってることが多いのです。たまに「同じ話を何回もするな」と感じながらも頷いてることの方が多いし、「俺の話を聞いてくれ、カシスオレンジ買ってきたから」なんてこともたまにある。約20年毎日のように顔を突き合わせながら何かしら話をしている。この点、ニーチェの「夫婦とは長き会話である」というのを実感しています。
 そんな日常にあって、会話が途切れて「静寂」が訪れると、嬉しさや余裕以外のものも生じます。最近では盆に合わせて妻子が実家に帰った時です。初めの2,3日は妻が嫌いで自分の好きなセロリを食べたり、子どもがいたらリビングでは見られないサイコスリラーものの映画を見たりと、一人の時間を楽しめるのですが、更に過ぎると寂しさ、孤独感といったものがよぎってきます。仕事から帰って、一通り家事を済ませて、することもないから早々と寝ようとしても、おや、まだ8時?みたいな状態もありました。
 
 このように考えていくと、どうも、「夜長」について、「涼しさが嬉しいと感じられる」だけではないのでは?と考えるようになりました。

 静かで涼しい秋の夜、夜とはこんなに長かったっけ?と感じたとき、一体どんな感情を得るのか。嬉しさだけではないかもしれませんね。

 ここまで触れたことから、歳時記の例句を「夜長にどんなことする?」「夜が長くなったと感じつつ、そこにどんな思いを抱いている?」と見ていくと面白いかもしれません。
 

5 例句を鑑賞してみる

  それでは、角川歳時記から何句か、ランダムに例句を選んで鑑賞していきます。何句鑑賞するか。サイコロ2つを振って決めてみますと、2と5が出まして、七句にすることとしました。
 鑑賞にあたっては、敢えて詠み手の名は掲載しない(詠み手の置かれた状況とは無関係に句だけを読んで自分がどう感じるか)こととします。

長き夜や目覚むるたびに我老いぬ
 秋になり夜がなんと長くなったことだろう。目覚めるたびに我は老いたと感じる。
 「夜長」に早めに寝たのかどうかは知らないが、目覚めてもまだ夜で、齢を食うと睡眠時間が短くなるというが、それを実感したのだろうか。私も寝てから大体3~4時間半くらいで一旦は目が覚める。遅番の後は、大体0:00に寝るが、4:30くらいに目が覚める。夏場なら朝か、と思えるが、夜が長くなると、まだ夜か、思えたりする不思議。

鑿を舐めて彫るや夜長の彫刻師
 鑑賞以前に「鑿」が、視力のせいで見えなかった。で、この字が「鑿」と分かっても読み方が分からず、漢和辞典を引いて「のみ」と分かった。
 「のみ」と分かった瞬間にピンときた。中七まで「鑿を舐めて彫るや」。彫刻用の鑿の先端を舐める彫刻師の姿に詠み手は感動している。「鑿舐めて彫るや」でなくて、字余りにして「を」を入れているから、彫刻師の動作を丁寧に描こうとしていると分かる。
 そして、鑿を舐めるという行為。私の祖父母の世代、いや、母もか、大事なことをメモする時、鉛筆の先っぽを舐めてからメモをとっていたものだ(昔の鉛筆は品質が良くなく、芯に水分を与えてから書いた方が濃く書けたという)。
 このことを思うと、夜長の彫刻師は、作品の大事な部分に取り掛かっているのだろうと。
 よって、中七途中までは、作品において大事なところは鑿を舐めてから彫るのか!という感動がある。
 後半、「夜長の彫刻師」とある。物事の長短とは比較によって生じる。「夜長」が「夜が長くなった」、すなわち「夜が短い」と感じられる季節(短夜)との比較があるかもしれない。短夜の頃から作品に取り組み、夜長となった今、彫刻師は作品の大事な部分を掘るために鑿を舐め、彫っている。詠み手はその傍らにいて、見守っていたのかもしれない。
 彫刻師と詠み手はどんな関係だろう?

漁火の灯る夜長は沖にあり
 漁火をともし、スルメイカか何かの大漁を喜ぶ長い夜は沖にある、と読んだ。
 沖にあり、というのだから、詠み手の居場所は陸だろう。詠み手が奥様か子どもだとして、明日の朝、漁から帰って来たお父ちゃんは、「大漁だバカヤロウ」とか言って帰ってくる。
 そしてまた、世の中には秋刀魚御殿やら鰊御殿、烏賊御殿と呼ばれる建築物もある。夜長、漁火の下取れるものによって贅沢な邸宅が出来上がるのかもしれない。こうなると、漁火の灯るというのは希望の光、夜長とは希望を受け止める時間なのだろう。

末の子の又起き来し夜長かな
 末っ子がまた起きてきた夜長であるよ
 リビングに自分がいて、戸を一枚挟んだ和室で妻子は寝ていたことがあります。子どもが保育園児だったころ。遅番の後にプレバトを録画したのを見たくて、カップラーメン準備してみてたら、子どもが「おしっこ」と言いつつリビングに来たこともありました。
 こんなことを思い出したのは、末っ子=幼い子、位でこの句を見て、「又起き来し」で、「起きて来た」と過去形で読んだから。
 私は、この句については、詠み手は「末の子」が自立して家を離れている状況だと捉えています。

寝るだけの家に夜長の無かりけり
 夜長には、「夜が長くなった」と感じる気持ちが多分に表れます。
 もしも、仕事から帰ってやることやったら・やれないまでもバタンキュー、外で飲むだけ飲んでバタンキューといった「寝るだけの家」だったら、そりゃ、夜長を感じる瞬間は家にはない。
 半面、家でないところで夜長を感じたことがあるからこそ、この句は成立するのかもな、と。

長き夜の楽器かたまりゐて鳴らず
 夜が長いと感じる夜、楽器は音楽室の隅とか準備室に片付けられていて、鳴らないのだと、そんな風景を思い描いた。
 詠み手はどの視点なのかはともかく。
 「かたまりゐて」は、固まるほど長く使われていない、もしくは演奏すべき人たちの心が固まってしまって鳴らされていないのかとも思えた。
 吹奏楽の全国大会は10月下旬だったか。そこを目標にして頑張っていた子たちが予選落ちしてしまい、挫折して代替わりして、もしも全国まで行けたら、夜長であってもこれらの楽器が鳴っていたのかもしれない。そんなことを何故か思い出した。

闘病の一つに夜長恐怖症
 …………俺だ。
 えっと、私、超のつく「じぬし」なんです。「地主」でなく、「痔主」、おおよそ20年前に患い、痔瘻でなければ手術の必要は無いとか医者に言われ、放っておいたのですけど、痛くないけど出血が多量になったりと症状に波があって、この夏
ようやっと手術を受けました。
 痔をこじらせて手術を受けたら、そこから夜が「お尻が痛くて寝れません」という状態がありました。特に痛みのひどい尻に座薬をどうにか入れないといけないので、本当にもう。夜になると刺激が少なくなって痛みに気持ちが集中しがちでなお痛かった。
 この句については、外科的手術とその痛みを伴う句として共感しかなかったのですが、「闘病」の病の内容によっては、長く感じられる夜を恐怖することもあり得る‥‥‥
 病ゆえにぐっすり寝れない、夜の間に目が覚めてしまう、起きてしまったが目は冴え、夜が終わってなくて悶々と不吉なことを思って過ごす。そんな経験がある。
 前段とまた別な病に、嗚呼かかっってしまった。また寝れない、夜間に目が覚める、不吉なことを思いながら長い夜を過ごすのか、と。

 というか、サイコロ振って鑑賞する句を決めていったけど、これは楽しい経験でした。

6 まとめ

 今回の「夜長」。角川大歳時記では前提条件として「秋の夜が長く感じられること」とあります。
 ここから、作句の方向性は幾つかに枝分かれしていくと思いました。
1秋の夜が長く感じられるのは、どんな時か?
2秋の夜が長く感じられるが、その上で何をするのか?
3秋の夜が長く感じられた時、どんなことを感じるのか?
 特に3です。同じ歳時記では「涼しい夜が長くなるのが嬉しい」という表記にぶつかりましたが、「嬉しい」に引っ掛かりを覚えたところです。
 「秋の宵」「秋の夜」を引いてみると、そこには「静寂」という単語がありました。秋の夜に静寂が伴うと仮定したとき、そこから得られるものは「嬉しさ」だけでしょうか。
 夜長とは、秋の夜の静けさや涼しさ、快適さ、その時間の長さを感じ取れる季語だと思いました。こんな状況に乗じて読書や夜なべを捗らせる方もいるだろうけど、例えば、静寂な長い夜に別な感情・自分なら孤独感や寂しさを感じることもあり得るのか、と。
 秋の夜が長くなったと感じた上でどんな心情が生じるのか?
 ここまで思って自分の作った句を見返してみると、季語が「夜長」や「長き夜」でなくても良さそうなものが多かったのです。季語の動く動かない問題が生じました。
 たぶん、佳作以上の方たちはこの問題をクリアして感動を与えてくれるのだろうと。
 自分は、「夜長」を感じたときに見た物体を、淡々と取り合わせるに留めた句を一句出して終わりにします。

 最近、俳句イップス気味なんですよね。。。
 

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