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季語深耕 「雷」(最終版)



1 雷とは

雷の起き方

もし、発達する雷雲を眺める機会があれば、雲が高く高く伸びていくのを見られると思います。

この雲は積乱雲と言われ、そのてっぺん辺りを仏門に入った人の頭に見立て、入道雲とも言われます。この入道雲、雲の中では上昇気流が発生しており、成長します。

この文章を書いている本日、仙台では最高気温が30℃という予報。真夏日です。地表付近で暖められた空気は軽くなり、上へ上へと昇っていきます。これが上昇気流。この時に含まれている水蒸気が雲を作ります。さて、地表が30℃だとして、山に登れば分かりますが、地表から高度が上がっていくと気圧が下がり、気温も下がります。標高が100m高くなると、気温は0.6℃下がるといいます。地表が30℃で真夏日だとしても、標高1,000mでは24℃、夏日にもなりません。さらに、高度が5,000mならば0℃です。また、積乱雲・入道雲が高く成長した場合、高度は10,000mを超えますが、10,000mでは-25℃となります。

気温が下がると水蒸気は凍って小さな水の粒となります。さらに冷やされ、とても小さい氷の粒(氷晶といって、0.5㎜以下)となります。上昇気流の流れの中で氷晶は他の氷晶とぶつかりあい、大きな塊になっていきます。初めは0.5㎜にも満たなかったものが、ぶつかり合って固まって、霰や雹になっていく。これらが大量に集まり、積乱雲を作っています。

氷晶が大きくなり、いずれ上昇気流によって支えられないくらい大きな氷の塊となったとします。そうなると、塊は落ちだします。落ちる中で周りの空気も巻き込み、下降気流を発生させます。上昇気流と下降気流が混在する時、霰と氷晶の衝突が沢山起きます。雲の中は衝突事故だらけです。

さて、私たちが目にするもの、例えば、今ちょうどこの画面を目にしている方なら、パソコンやスマホの液晶画面、それを操作するご自分の手指、そして、私たちが目にすることのできるものは、すべて原子で構成されています。

この原子の一粒一粒、荒っぽく言えば電気を帯びています。その帯びている電気の量を電荷と言いますが、ご存じの通り、電気にはプラスとマイナスがありますね?

さきに、入道雲の中では氷晶同士であり、霰とや氷晶の衝突事故だらけと書きました。この衝突や接触、氷晶同士でぶつかっているだけでなく、氷晶と霰でもぶつかり合ってます。霰とは5㎜未満の氷の塊。氷晶が0.5㎜以下です。
子どもと大人が互いに時速2km/hでぶつかり合ったとき、より大きなダメージを受けるのは子どもです。また、車の衝突事故でもトラックと軽自動車が衝突したときにより大きいダメージを受けるのは、軽自動車です。
入道雲の中でも、同じようなことが起きています。氷晶と霰がぶつかり合う。この時、より小さな氷晶の方がダメージを受けて壊れてしまう。
ただ、この時、ぶっ壊れて吹き飛ばされた氷晶側はプラスの電気を帯び(帯電)、壊れて霰にくっついた側はマイナスに帯電します。
氷晶は霰より小さく軽いので、上昇気流によって上へ上へ集まっていきます。
入道雲の上の方にプラスが、下の方にマイナスが集まります。
そして、雲の上の方(プラス)から下の方(マイナス)へと、周囲の空気を巻き込んで放電が起きる。

これが雷の起こる理屈であり、雑に言えば、雲の中での放電だけでは収まらなくなったものが落ちて来て、落雷となって、と考えてみました。

ここまででイメージできること(1)

雷の起きる仕組みや理屈に触れてきましたが、句作においては、そこからイメージできることが大事です。ここまでの文章から、

・衝突から起きる衝撃と光:二物衝撃(俳句の「取り合わせ」や、ライバル同士の衝突から生まれる新たなもの、戦争から生じてしまう新技術などなど)
・離されていたプラスとマイナス、陽と陰が激しく引き寄せられる現象、そこに起きる激しい現象:引き離された男女の激しい愛情表現(そういえば、青年漫画などでセクシャルな表現があると背景に雷光が描かれたりもしますね)

ここで思ったのです。
「雷とは、どんなイメージを持つものなのか?」「昔の人は、雷を見たり聞いたりして、どんな風に思ってきたのか?」

さて、次項に行く前に、脱線してみます。

脱線その1 「雷」という漢字

「雷」という漢字を見たとき、「何で雨かんむりに、田んぼの田なのか」と思ったこと、ありませんか?

雨の良く降るころの田んぼで良く見るから?
田んぼに雨が降り、雷が落ちると豊作だから?
それにしても、「雨」+「田」なら、読みが「デン」になるのが当然では?

もはや30年以上前くらいでしょうか、こんなことを思っていたことを思ったのは確かです。

大学生になり漢和辞典とどうしても仲良くならないと行けない頃、「雷」の旧字体が「靁」だと知りました。「畾」とは、「田」を三つ集めた字でライとかルイと読みます。で、「畾」を面倒くさいから一つにして「田」として、今日の「雷」という漢字となったと知りました。
「畾」という字ですが、元々は「田」のような同じような面積、形の土地が「連なる」「重なる」ことから来た字のようです。よって、連なっている田んぼに雨が降っている様だったり、雨に何らかのものが重なっている様が「靁」となったのかとも言います。
 視覚的に、稲妻が重なっている様から靁であり雷という字が生まれたとする説は、私の持つ大修館書店「漢語林」で採られている説です。
 一方、雨の中で連なる音を表現したのが「靁」であり「雷」と表記したという説にも会いました(「雷文化論」慶應義塾大学出版会)。
 さて、どっちなんでしょう?あるいは、どちらもか。
 なんにしても、雨の中の何らかが「つらなり」、「かさなり」、その様が「雷」という字のルーツとなっているのは確かなようです。


2 「雷」のイメージ

2-1 雷の神々

 いまどき、死語でしょうか。「地震 雷 火事 親父」という言葉があります。恐ろしいものを列挙したものです。今時の父親像というのはこの言葉とは違いますが、確かに自分の父は怖かった方です。
 家長制度の残る中で小さいころを過ごし、実兄の代わりに実家を継いで、本家を守るという思いがあったかもしれません。父が亡くなった時も、母が亡くなった時も、従弟たちが集えば、長男だった伯父と次男だった父は怖かったという話が出てきます。大分古いエッセイ集とはなりますが、向田邦子さんの「父の詫び状」をご一読いただければイメージが湧くかもしれません。威厳があり怖い、しかし、どこか理不尽で不完全な父親像があります。
 さて、「威厳のあるもの」とは、「近寄りがたく、畏れ敬う対象」という意味ですが、その典型的なのが「神様」でしょうか。そして(親父はひとまず置いておき)地震やそれに伴う津波、雷、火や炎については、それぞれ神様が設定されているのが日本です。
 ここでは雷だけに絞りますが、日本の神話上、雷の神様と言えば「建御雷之男神」(たけみかづちのおのかみ・以下「タケミカヅチ」)です。タケミカヅチは雷神であり剣の神となっています。ここから色々と考えられることや脱線して話は広げていけますが、ここでは、雷が神格化されていることが一番大事な点であること、人間は雷=近寄りがたく畏れ敬う対象として扱ってきたこと、と押さえるにとどめます。
 雷が神格化されている例は日本だけとは限りません。「【雷神】日本と世界の『雷を司る神』 一覧 | coredake!ミステリー」というサイトでは世界の雷の神々を紹介しています。こちらを参照すると、まず気づくのは世界の雷神を見渡した時、男神が多く女神が少ない点です。神話に登場する神々について、元々男神が多いということも考えられますが、それを差し引いたとしても差が大きいものだ、と感じました。もしかすると、人間は雷に男性を重ね合わせやすかったのかもしれません。
 さて、次に、雷神たちが雷以外に併せ持つものを少し見たいと思います。
 例として、先に記したタケミカヅチに目を向けてみます。イザナギとイザナミは色んな神様を生み出したのですが、その中にカグツチという炎の神もいました。炎の神を生んだことでイザナミは大火傷を負って死んでしまいます。これに怒ったイザナミが十束の剣でカグツチの首を刎ねました。この時飛び散った血からタケミカヅチが生まれています。
 この所以から、タケミカヅチは剣の神という性格も持っています。また、「出雲の国譲り」等においての役目(下界を平定する)から考えると武神・軍神といった性格もあります。ゆえに、「武道の上達」、「国家の鎮守」といった役割が持たされましたが、元からその土地にいたとされる神様との混同や習合が行われ、その土地ごとの産業の守り神にもなりもしました。
 タケミカヅチ以外にも、北欧神話のトール(雷神、豊穣神、戦神)、ヒンドゥー教のインドラ(軍神、世界を守護する神)→仏教における帝釈天(仏教の守護神。仏教信者を災難から守るとされ、厄除けや病気平癒など)といった、雷という自然現象の神格化から始まり、別な性格も盛り込まれていった神たちがいるようです。
 ただ、雷神→「剣」「戦」「軍」というイメージは結びつきやすいようです。
 ギリシア神話の主神、ゼウスにおいては、戦というよりも破壊的な一面があります。
 ゼウスは雷というより、天空神とでも言うべき存在で、宇宙であり、天候を支配し、人類と神々双方の秩序を統べて守る神々の王です。その手にする武器は雷霆(ケラウノス)といい、激しい雷というくらいの意味で、威力は宇宙を焼き尽くせるといいます。宇宙を統べることのできる主神が破壊の力をも持つ点、興味深いところです。

2-2 神鳴ー神の意思、怒り、恵み

 前段では、世界三大宗教の内、仏教における帝釈天(仏法僧・仏教の守護神)には触れましたが、キリスト教とイスラム教には触れていません。世界中の6割以上の人々が、キリスト教、イスラム教、仏教のどれかを信仰しているといいますから、日本や世界の神話に触れながら、キリスト教やイスラム教における雷について触れないというわけにはいきません。
 キリスト教(と元となったユダヤ教)やイスラム教は、神とは唯一の存在(唯一神)です。日本には風神雷神を描いた屏風(風神雷神図屏風 俵屋宗達 - Bing images)のようなものがありますが、唯一神信仰においては、「風神雷神とも唯一神がお創りになられたものである」「風神雷神とも人間が勝手に作った邪神である」となります。
 では、唯一神信仰の中での雷とは何か?これの答えの一つが、雷の傍題でもある「神鳴」の一つの答えにつながりそうです。神が鳴らすものだから、「神鳴」。それは神による自然現象であり、神の意思を示す声だったりします(ヘブライ語の「雷」は元々「神の声」という意味の言葉だったらしいとか)。
 そして、例えば、旧約聖書を見ると、雷によってもたらされる神の意思とは、怒り(出エジプト記を読むと外敵であるエジプトへの攻撃的な働きをしている。また、神と契約を結んだ人間に対して畏怖と絶対的な帰依を求めたり、罰のために雷を使っている)、もしくは、栄光といったものもあるようです。
 イスラム教だとまた違った意味があるようです。1つ目は旧約聖書にあるように、神の怒りであり、神罰。2つ目は、怖いが、豊穣をもたらす存在。
 イスラム教はアラビア半島のメッカから広まっていった宗教です。砂漠気候、降雨量は日本ならば一日で降っておかしくない100㎜の雨が、年間降雨量となる場所もありえる、そんな地です。ここから、遊牧であり、オアシスでの農業や商業とともに広がっていったのがイスラム教です。遊牧をするには家畜の水も草も必要です。日本でいうところの冬から春頃が、比較的雨が降るころ(年間総雨量は少ないものですが)だそうです。
 こうなると、雷が起きる水分を多量に含んだ上昇気流が起こりにくいと考えられます。しかし、そんな中で雨の降る期間にたまに鳴る雷。日本などに比べれば起こる頻度も少なく、その分なお恐ろしいかもしれません。そこに、神の力、声、威厳を感じられる一方で、貴重な雨をもたらすものと捉えられていた様子です。一方で、雷の後の激しい降雨が、砂漠の枯れた谷を突然満たして鉄砲水となって、遊牧している人に襲いかかる:神罰としての側面をやはり持っている、ということとなります。
 神罰や神の破壊的な力は、人間にとっては恐ろしいものです。この辺り、日本では、無念の思いのまま亡くなった者の霊の祟りという考えもあります。有名な所では、平安時代の学者であり右大臣という地位になったが、左遷させられた菅原道真の伝説があります。左遷され太宰府に送られた道真は、都に戻ることなく死します。その後都では彼の政敵が次々亡くなったり、天皇の御殿(清涼殿)に雷が落ちたり、東国では叛乱が起きたりしました。これらが道真の祟りであり、清涼殿に雷を落としたのは怨霊化した道真が手下にした雷神によるものだとされました。
 これらの事件・事変の末、道真は神として祀られるようになった、とされます。初めに神ありきではなく、祟るのを辞めてくださいと神として祀られた点が、祖霊信仰のある日本らしい話です。

ここまででイメージできること(2)

・威厳、恐怖、破壊、祟り
・神、信仰、神の声、畏怖、天罰・神罰
・男、剣、戦争
・産業の守り神、その土地であり信仰してくれる者の守護、鎮守、豊穣

2-3 自然観察・科学的視点から見ると

 2-2までで、雷=畏怖の念を持たされる、人間への罰であり恐怖感をもたらすものということの方が、文章的に量が多くなっていたかもしれません。
 一方、タケミカヅチが土着の神と結び付き、その土地の産業の守護神となったこと、北欧神話のトールが雷神、戦神というだけでなく、豊穣神であったこと、イスラム教において雷は畏怖の対象であり雨をもたらすありがたい存在だということにも触れてきました。
 日本、北欧、アラビア半島と、それぞれ場所や気候、民族が違っても神格化されたり神の力の顕現として雷が存在すること、それが畏怖の対象というだけでなく、豊穣の願いが託される存在だったという点、面白いところです。
 雷が豊穣をもたらすという考えは、単に降雨があるからという理由だけではなく、「稲妻」という言葉からも分かります。稲とは植物のイネ、これのが多く実るときの伴侶(夫、妻)だから稲妻。イネにプラズマ照射をすると発芽率が上がる、ということを(理屈はともかく)昔の人は経験的に知っていたようです(”雷が豊作をもたらす”は本当? ー言い伝えにサイエンスで迫る!ー|NHK)。
 自然を観察して稲妻という単語が成り立ったのと同じく、二十四節気七十二候には「雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)」というものがあります。日本では二十四節気の春分の次候、中国では春分の末候に相当します。
 自然現象を観察したものとなれば、中国発祥の二十四節気七十二候は外せません。幾年もかけて自然を観察したうえで、例えば「そろそろ桃の花が咲きだすころだよね(桃始笑)」「そろそろ雷が鳴るころだよね」と、暦に落とし込んだものです。暦を作るには天文学が必要ですし、そこに自然観察の上で節気や候をあてたのですから、随分科学的なものだと感じます。
    雷と科学といえば、18世紀にアメリカのベンジャミン・フランクリンが、雷が電気であると証明した話が有名です(最近の風潮では、どのような実験をして証明したか詳細まで記されなくなっています。雷雲に向かって凧を上げ、糸を伝わってきた電気をライデン瓶にためるという実験ですが、あまりにも危険な実験だから、よい子が真似をしないように、と)
    電気そのものについては、古代ギリシャで2500年前以上に発見はされていました。琥珀を布で擦ると、周りの埃やら糸屑やらが引き寄せられると、タレスという哲学者(半円に内接する角は直角になる、という「タレスの定理」を証明した人)が気づいたのでした。静電気の発見です。しかし、この時点で静電気は「ものを引き寄せる」という点から磁力と勘違いされたようです。
  磁力と静電気の違いが観察の上、確立されたのは16世紀、イタリアの数学者、ジローラモ・カルダーノという人が磁力と静電気の違いをまとめたのです。例えば磁石は鉄しか引きよせないのに、擦った琥珀は軽いものなら何でも引き寄せるとか、磁石は引き寄せる物の間に、紙を立てて固定したものを挟んでもものを引き寄せるけど、擦った琥珀は引き寄せないなど、そういった違いです。
   さらに、イギリスの医者、ウィリアム・ギルバートは、琥珀以外の物体を擦っても、静電気が起きることを確かめて、ものを引き寄せる力を、ギリシア語の琥珀(elektron エレクトロン)から、「electric(エレクトリック)」と呼びました。
    ここから、電気の研究が進み、これを受けてのフランクリンの実験に至るのでした。
    フランクリンの実験により、雷が電気だと分かった、ならば、雷雲のなかで何が起きて電気が起きているのか?と、雷の研究は電気の研究ともども進んできたようです。色んな説が出ては消えていったようです。例えば、フランクリンの実験から100年以上を経て有力視されたのが、20世紀初めころのレナード効果(水滴が分裂したときに、大きな水滴はプラス、小さな水滴はマイナスの電荷を帯びるようになる現象。滝の近くでは水滴が多く分裂し、マイナスイオンが多くなる)による説明でしたが、雲の中が-25℃にもなると考えると、水滴は凍ってしまい、分裂どころではなくなると分かり、説は覆されました。現在では冒頭で書いた雷発生のメカニズムに大方は落ち着いていますが、まだまだ未知の部分も多くあるようです。
   それにしても、ここまで書いてみて、はるか昔の人々の観察や科学への探求心には恐れ入るものがあるのは確かです。人間は、その眼と思索、実験等を積み重ね、神の声であり威厳であり、武器であった雷を、我が手に移していったように思えたのは私だけでしょうか?

脱線その2 雷のホットスポット

 この章を書きつつ、思わず神話や宗教の生まれた土地を思い浮かべることとなりました。
 ところで、雷は世界のどのあたりで、どれくらいの頻度で起きているのでしょう?
 NASAの人工衛星や、JAXAとNASAが協力して打ち上げた熱帯降雨観測衛星により、全地球では1秒間に約50回雷が発生していると分かったといいます。
 そして、これらの衛星のデータによれば、南米のマラカイボ湖(ベネズエラ北西部にある湖)とその周辺、アフリカ・コンゴの東側が、どちらも、1㎢あたり年間100回以上雷が発生する場所ということです。
 マラカイボ湖あたりについては、北がカリブ海に面している一方で他の三方は高い山に囲まれています。カリブ海からの風が湿気を帯びているのに加えて、マラカイボ湖の水蒸気も合わさり、上昇気流が起きやすく、更に山々からは冷たい空気も流れ込んでくるとなれば、雷雲ができやすいのもうなずける話です。
 コンゴでは大西洋からの気団が山岳にぶつかり、雷雲が発生しやすくなっているとのこと。気団まで行かなくとも、海からの暖かな湿った風が山岳からの冷気とぶつかり、大気の状態が不安定になる場所は世界のあちこちに存在する様子です。

3 季語の本意を考える

3‐1 雷:らい、かみなり、いかづち

 さて、ここまで、雷のメカニズム、神話や宗教、科学からのイメージをつらつらと書いてきました。ここからようやく歳時記を見ながらの話となります。
 漢字で「雷」と書いて、「らい」「かみなり」「いかづち」と三つ読み方があります。
 「らい」については雷がもともとは「靁」と書き、音は「畾」から来ており、「らい」という読み方であること、意味は連なるという意味だということを先に触れました。雷として連なるのは、「ゴロゴロゴロ・・・・・・」という音が連なるとも考えられるし、光(稲妻)が連なって見えることからくるかもしれません。
 「かみなり」は「神鳴り」で、神が鳴らすもの(あるいは声かも?)ということを書かせていただいています。
 「いかづち」。これは、「厳(いか)ツ(つ)霊(ち)」。「つ」は飛鳥時代後期(白鳳時代)から奈良時代(いわゆる上代)における格助詞で、連体修飾格を作る役割を持つとのこと。今でいう「の」。「霊(ち)」の読み「ち」については、人知を超えた力を持つ存在を指す音。「霊」は、魂(万物の魂であり、死者の魂)だったり、神、神秘の力、といった意味のある漢字。
    つまり、「厳」なる霊が示す現象、もしくは「厳」なる神秘な力そのものが「雷」。そして、「厳」の元々の字義を手持ちの漢和辞典(漢語林)で調べると、きびしく辻褄を合わせるという意味があったとのことです。そして、読みの「いか」は、「いかし」。激しく荒々しいという意味です(ウェブの古語辞典でも引けました→いかしの意味 - 古文辞書 - Weblio古語辞典)。
    激しく荒々しい霊が示す現象でありその力が「いかずち」です。
    「いかづち」や「かみなり」は、「らい」よりも神秘的であり、「らい」は自然現象として客観的な言い方と捉えるべきでしょう(無論、日本語において「雷」と書いて「かみなり」と言うのがメジャーになっていることを考えると、「かみなり」に何か自然現象以外の要素を加えたいなら「神鳴」と表記する方が適かと考えます)。「いかづち」と「かみなり」ならば、より荒々しく畏怖の念や恐怖感を与えるのが「いかづち」だと言えそうです。

3-2 鳴ってこその雷

 角川大歳時記で「雷」を見ると、傍題が結構多いことに気づきます。「神鳴、いかづち、はたた神、鳴神、雷(らい)、遠雷、落雷、雷火、雷鳴、迅雷、雷声、雷響、雷霆、軽雷、日雷、雷雨」。これに新歳時記のものを加えると、「疾雷、雷轟、雷震、熱雷、界雷、熱界雷」。
 様々な傍題があり、これを使い分けるのも困難そうですが、一つの共通点が、見出し通り、「鳴ってこその雷」です。「かみなり」の語源がそもそも「神鳴」であることは先に述べたとおりですから、語源通り言えば、雷雲の中の放電現象による雷鳴:聴覚的な情報が雷には前提としてあると言えます。よって、句作において「雷が/聞こえ・・・」「雷が/鳴って・・・」と敢えて聴覚的な情報を組み込むのは、よほど何かの事情が無いと成功しないでしょうか。
 (一方、視覚的な、雷の電光=プラズマが稲に豊作をもたらすというところから「稲妻」という呼び方が生まれ、「稲」との絡みから秋の季語となってもいましたね)

3-3 傍題を分けてみる

 雷の傍題を少し種類分けしてみたいと思います。

(1)神様の系統:神鳴、いかづち、はたた神、鳴神
・神鳴、いかづちについては、先に記しているので省略する
・はたた神の「はたた」は「霹靂(音読みなら「へきれき」)」と書く。霹靂くの意味は、(特に雷が)激しく鳴ること。激しい雷のことだが、そこに人間を超越した恐ろしい存在がいそうな気配。
・鳴神は雷神。激しさでいえば、はたた神の方が上か。なお、歌舞伎に「鳴神」なる題目がある。

(2)聴覚情報以外も持つもの:落雷、雷火、日雷、雷雨、雷轟、雷震
・落雷は、雷が落ちる現象で、落ちたときの音だけでなく、光の視覚的情報を持たせられるし、振動(触覚情報)も伴うだろう。
・雷火は、落雷によって起きる火、火事。火事だから、視覚的、触覚的な情報、何かの焼ける嗅覚、また、雷でない火事の音も含まれそうだ。
・日雷は晴れている時の、雨を伴わない雷。晴れている時の聴覚以外の情報も含まれる。旱の前触れというイメージもある。
・雷雨は、ご存じの通り雷を伴う雨だが、降り出しだけ言えば、雷が鳴る→雨が降り出すという順番となる。
・雷轟は、雷が轟くこと。轟くことで鳴動・つまり何かが動いているということが知覚される。
・雷震は、雷の轟きだが、より「震える」という情報、視覚、触覚的情報が強まる。落雷の意味もあるが、字面通り落雷よりもそれによる振動がメインとなる。

(3)聴覚中心?程度や距離:遠雷、雷鳴、迅雷、疾雷、雷響、雷霆、軽雷
・遠雷は遠くから聞こえる雷。実際に自分がいる場所は晴れ、積乱雲がはるか向こうに見えることも。
・雷鳴は雷の鳴る音。
・迅雷は激しい雷。ただ、疾風迅雷の四字熟語通り、そこまでの事態が急変するという「速さ」もある。急に鳴る。
・疾雷は「突如」の激しい雷。「突如」なので迅雷より不意打ち感がある。
・雷響は雷の響く音。雷鳴よりも規模は広がっていき大きく感じる。音そのものにより特化した感も持った。
・雷霆は激しい雷。激しさもあるが、勢いも感じられる。なお、「雷霆万鈞」、激しく勢いがあって且つ重厚だから、他のものと比べ物にならないくらいの激しい勢い。
・軽雷は小さい雷鳴。かすかに聞こえる雷鳴。

(4)雷のでき方に着目:熱雷、界雷、熱界雷
・熱雷は地面が日差しで熱せられ、上昇気流が起き、雷雲が発達して生じる雷雨。
・界雷は寒冷前線が暖気を押し上げて生じる雷雲からの雷雨。これが夏の季語なのはどうなの?とも思える(界雷は夏以外の季節の雷の原因のメインを占めるので・・・)
・熱界雷は熱雷と界雷のミックス。

 他にも、雷には傍題として使えそうな語句がありそうです。雷神、天鼓、霹靂・・・・・・挙げたらどうなるでしょうか?
 自分の句にぴったりな雷の傍題を見つけるのも楽しいかもしれません。

4 最後に(投句にあたり)

 今回も色々と調べるうちに10,000字超えの文章となってしまいました。長々とお付き合いくださりありがとうございます。ただ、雷について調べ切ってないことは沢山ありますし、自分自身参考文献を理解できてない部分もあるかと思います。書くべきことが他にもたくさんあるのではないかと。でも、キリがなくなるのでここで切り上げます。

 俳句ポストで雷の兼題が示され、何句か作り、季語について深めようと思っていた時期、母が亡くなりました。自分にとっては正に青天の霹靂でした。
 母が亡くなり、葬式までの間何日かあり、また、職場に復帰するまで、心の間隙を埋めるために「雷」の句を作ろうともしましたが、どうしても母の句ばかりできてしまい、今回は母の句を二句ほど投句することとなりそうです。はっきり言って、視野狭窄状態ですね。投句はするけど没覚悟です(母のことを昇華しきれていないし、措辞と雷がミスマッチな気がする句多数)。
 毎回、特に佳作以上、時には並選・類想であっても、ハッとする句に出会うことができる俳句ポスト。投句される皆様に、少しでもお役立ち頂けたら幸いです。

 では、次回、私の特に苦手な植物季語「コスモス」でお会いしましょう。

今回の資料:角大歳時記と新歳時記はいつもどおりです。
・雷の疑問56(成山堂)
・雷文化論(慶応義塾大学出版会)
・気象災害から身を守る大切なことわざ(河出書房)
これらのほかにウィキペディアをはじめ、多数のwebサイトを参照した。


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