あの指に帰りたい~優季の場合②~

薫さんのマンションはうちからさほど遠くなく、歩いても二十分ほどのところだった。
一人暮らしとは思えないほど広くて、家具もモノトーンで落ち着いたデザインだった。
物はあまり持たない主義なんだろうか。生活に最低限必要なものしかないからか、広い部屋がより一層広く見えた。

「暑かったねー。優季ちゃんアイスティーでもいい?コーヒー切らしちゃってるの忘れてたの。」
薫さんはエアコンの温度を下げながらキッチンからこっちを覗き込んだ。
「はい!私家ではいつもアイスティーなんで、ありがたいです!」

名前を初めてちゃん付けで呼ばれてドキッとした。それはそうだろう、十歳近くも年下の女の子に対してさん付けする人なんていない。お店ではさん付けで呼ばれたことはあったけど、なんだか一歩近づけた気がして嬉しかった。

途中にコンビニで買ってきたお菓子を食べながら、ふたりで夢中になって何時間もドラマに見入った。
薫さんはたまにリモコン操作をするくらいで、私の邪魔にならないためかあまり喋らなかった。

リモコンを触る手。細くて長い指・・でも関節は少しゴツゴツしていて、血管が所々浮いていて力強そうな手だった。この手に触られたら・・・

私は何を考えているんだろう。薫さんは女の人だし綺麗だし世の男たちは放っておかないだろうし、女の私に憧れられても嬉しくもなんともないだろうし。
それに私はそっちの気はないし男が好きだし結婚もしてるし、普通の人間のはずだし。
普通の・・

私は世間で言う本当に面白みもなく普通に生きてきた。
地元の高校を卒業して就職して職場で出会った今の旦那となんとなく付き合って結婚して。旦那に不満はないしもちろん好きだし、子供だってそのうち欲しいと思っている。
結婚して子供を産んで、子育てが落ち着いたら旦那と旅行にでも行っていつか孫の顔を見る。そんな当たり前なことが、女の幸せなんだと母は昔から言っていた。

結婚してもうすぐ3年になるからもう付き合っていた当時のようなときめきはないけれど、結婚なんてみんなそんなものなのだろうし、別に不満があるわけでも・・

「どうした?寒い?」
私がろくに画面に集中していないのが分かったのか、薫さんは私の顔を覗き込んだ。
「い!いえ!大丈夫です!」

焦った。薫さんに触られる妄想してたなんてバレたらきっと嫌われるし薫さん近すぎて私の顔今絶対赤面してるし・・ここはどうごまかせば・・

「飲み物おかわり持ってくるね。」
そう言ってソファーから立ち上がった薫さんの手をなぜか咄嗟に掴んでしまっていた。
「待ってください!」
え、私は一体何をしてるんだろう。何を待ってなのだろう。これじゃただの不審者というか変態じゃないの?怖くて薫さんの顔が見られない・・

え?・・・・
薫さんの指が私の指の間にそっと入ってきた。そっと握ってくれたその手は、とても熱くて脈打っているようにも思えた。

「優季ちゃん。嫌だったら今言ってね」
そう言って薫さんは反対の手で私の頬をそっと撫でて、顎を優しく自分の方へ向けた。
だんだん近づいてくる薫さんの綺麗な顔。少しずつ閉じていく琥珀色の綺麗な瞳。

私は動けなかった。
心臓が口から出そうなくらい高鳴っていて、緊張のせいか手が一気に汗ばむのが分かって、汗で薫さんに気持ち悪がられないか、そんなどうでもいいことを心配していた。

薫さんの唇が微かに私の唇に触れた。
私の気持ちを確認するかのように

私にもう一度「戻る」チャンスを与えるかのように一度少しだけ離れてから、また口づけられた。

優しくて繊細なキス。時折唇で私の頬に触れて、また唇を優しく包んだ。
今度は薫さんの舌がそっと私の唇を這って、迎え入れた私の舌を撫でた。

今まで経験してきた、こじ開けられるようにまさぐられるだけの強引なキスとは全然違う。
柔らかなそれが、私のそれと一体になっているみたいに、もうどこからどこまでが自分のものなのか分からなくなりそうな感覚。

お腹の辺りがジンとして、薫さんがさらに私の口の奥の方を入念に撫でる度にそれがお腹の下の方に下りてくるのが分かった。
熱い・・私の中心部が甘い脈を帯びて、そこから全身に麻薬みたいなものが流れてくる。

薫さんはそれを察知したかのように、私の内腿にそっとあの指を這わせた。

ダメだ・・!
「あの!ごめんなさい!」
咄嗟に私は薫さんの身体を押しのけた。
剥がされた唇から、さっきまで混ざり合っていた甘い空気が漏れる。

「ごめんね・・嫌だったよね・・」
薫さんは少し体を離して、申し訳なさそうに言った。

「違うんです・・あの・・失礼します!」


私は荷物を掴んで、飛び出してきてしまった。
怖かった。ただただ怖かった。
薫さんが怖かったんじゃない。キスが嫌だったんじゃない。

それどころか、あの心地いい甘い行為をもっと味わっていたいとさえ思った。あのまま身を委ねていたら、あの指にもっと深い部分に触れられたらどんなに・・。
自分がどんな風になっていってしまうのか、それを知ってしまったらもう戻れなくなりそうで、それが一番怖かったのだ。

落ち着いて整理しよう。冷静になれば大丈夫。何が大丈夫なのか分からないが、そんなことを考えながらだいぶ遠回りして帰った。


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