実在と自己 1


1.直接的実在者における弁証法的規定

α.実在の考究の為の準備考究

われわれにとって、もっとも身近にして手元にある実在者とは、われわれの各々の実在である。あらゆる哲学どころか、われわれのあらゆる経験と知覚が、われわれの各々の実在を基礎として要請する。このような実在者の実在、われわれの各々にとっての「私」の実在こそ、われわれが考察するあらゆる考究の営為において最初の原理(第一原理,primal principle)として打ち立てられなくてはならない。
さて、このようにして打ち立てられた原理、「我々におけるもっとも身近な実在とはわれわれの各々の実在である」という原理において、われわれは「最も確実なところから考究を始めなくてはならない」という知的営為すべての規範に従うことより導かれた考究の規範、「我々の実在は最も確実なものである」という規範に従った上で、我々の自己についての考究を行うこととなった。しかしながら、いまだわれわれは「実在」なることがいかなることであるのかについての知識を得てはいない。ゆえにわれわれは実在がいかなるものであるか、ということについて、考究を遂行する必要がある。
しかしながら、ハイデガーが存在について指摘したのと同じように、「実在」という事態はわれわれが問題とするべき普遍的事態としての実在ではなく、各々の実在者の実在、いわばリンゴの実在として考えられており、その意味において、実在とはわれわれの日常的な知的営為から身を隠して、その姿を覆い隠されているのである。実在のこのようなベールをはがして、純粋な、アプリオリな実在を明らかにするために、われわれはまず「純粋な実在者」についての考究を行わなくてはならない。われわれが使用するいかなる言語も、実在及び存在そのものを表現することはできないのであって、いかなる言語においても、実在と存在を表現するにあたっては何かしらの指示代名詞を、明示的にも、暗示的にも示さなくてはならない。日本語の口語において「ある」とだけ発せられたとしても、その「ある」という言葉は何かしらの存在、あるいは実在を暗示的に表現している。このこと、われわれが用いる言語においては、存在、または実在そのものを言い表すことが今の所できないということによって、われわれは哲学が学である限りにおいて、言語によって、純粋な実在者についての考究を遂行する。ゆえにわれわれは純粋な実在を明らかにするためには、それを一旦、「純粋な実在者の実在」として考え、そして第一に「純粋な実在者」がいかなるものであるのか、ということを明らかにしなくてはならない。少なくともわれわれは、かかる純粋な実在者があることを前提としてこの考究を遂行しなければならない。かかる実在者がありえないとするのであれば、われわれは言葉による知的営為によっても、実在者という概念を取り扱うことが出来ない。純粋な実在者が成立しえないならば、リンゴが実在するということと、ナシが実在するということは全く異なった事柄であり、われわれはそれを同一性のあるものとして、いわば「実在するもの」として扱うことができないのである。類似する実在者同士の比較であっても、あくまでそれは類似するもの同士の比較に留まるのであって、あらゆる実在者を概念として統一するような「実在者」と概念とはなり得ないのである。ゆえにわれわれは、純粋な実在者があることを前提として、この考究を遂行しなくてはならない。
このような準備的考察によって、われわれがまず明らかにしなくてはならない問題が、純粋な実在者の問題であることが明らかとなった。
純粋な実在者とはすなわち直接的実在者のことを意味する。直接的実在者とは、己自身の実在のうちに、己自体として己の実在を成立させているような実在者のことである。直接的である、というのはそれが他者と関係することによって己を成立させていること、間接的であるということに対して、他者との関係を抜きにして、己自身を己自体の成立の要件として保有するようなことを意味する。このような実在者においては、そのつど、己自身の実在は、己自身において予め既に与えられている。このように自らの成立を自らのうちに与件として有する実在者における実在の形式のことを、己自体である、という意味において「自体的」という熟語として表現する。
さて、このような実在者は自体的であるから、その実在にあたっては、なんら根拠も原因も必要とはしない。ところで、我々がここで問題としているのは、各々の、個別的実在者ではなくて、概念としての実在者、純粋な実在者としての実在者であるから、個別的実在者がほかの何者かによってそれとして成立していることが否定しうるというのは、個別的な実在者の実在の真偽に関わらない何者か(it)が実在者として実在しているということについての否定の可能性を意味しない。何よりもまず、われわれがこの考究における規範として提示したのは「私の実在は最も確実なことである」ということであって、これは必然的に「私が実在するということはそれ自身不可疑である」ということを意味する。「私が実在する」とは、われわれの各々にとっての「私」が実在することだが、しかしながらこれは同時に「私がいかなるものであろうとも、私は不可疑なものとして実在する」ということでもある。われわれの各々にとっての「私」が男であろうと、女であろうと、子供であろうと、大人であろうと、老人であろうと、人間の知性と意識を持つ毒虫であろうとも、ここにおいて自身として実在するものとは、そのつど、各々の「私」である実在者なのである。
であるからして、かかる実在者、直接的で個別的でないような実在者とは、自体的実在者であり、このような実在者のもっとも典型的なものとは、われわれの各々にとっての私としての実在者であって、またこのような実在者とは、不可疑のもの、否定不可能なものとしての絶対的実在者として、各々の実在者にとって既につねにそうであるところのものとして与えられている。
さて、このような実在者が無根拠で無原因に、既にあらかじめ個別的実在者において与えられているということによって、直接的実在者における弁証法的規定が導かれることとなる。弁証法的であるということには、その概念は直観的に矛盾したものとして規定されているのであって、それは「概念を規定する要素における相互の矛盾が、それをまさにその概念として規定するようなもの」としてその概念が規定されていることを意味している。ただしここでわれわれが留意しなくてはならないこととは、この弁証法的規定というものは規定として、その概念を成立させるにあたっての要請として、われわれの考究のうちに与えられているものであるが、あくまでそれは、概念の側から必然的に与えられるものとして、その概念がわれわれの意識の前に既につねに与えられているものとして成立するために要請されるような規定である、ということである。このような規定とは、規範的な、いわばそのような概念が必然的にそのように成立するべき規定ではなくて、そのような概念がわれわれにおいて既につねに与えられている限りにおいて、その概念の成立における要請としての規定、記述的な規定であるのだ。
さて、直接的実在者における弁証法的規定とは、端的に言えばふたつの規定として考えられる。ひとつは実在の偶然性、もうひとつは実在の必然性である。ところで、必然的であるということは、あるものにおいてその成立が、「別のあるものの成立によって、必ずそのものがそのように(然)なる」ようなものとして規定されているということを意味している。また偶然性とは、ある事実や事態が、必然的に成立するものとしては規定されていないということを意味している。言い換えれば偶然性とは「たまたま(偶)そのように(然)なっている」ような事実や事態の形式を意味するのである。

 β.実在者における弁証法的規定

A.実在者の偶然性
直接的実在者の偶然性とは、可能における偶然性である。
さて、直接的実在者における偶然性は、実在の偶然と様態の偶然のふたつが考えられる。実在の偶然とは「ある実在者の実在にはなんの必然性もない。」という命題において表現される偶然性である。直接的実在者は、まったくもって無根拠で無原因なものとして成立する自体的なものであるから、その成立にあっては、必然性の規定において要請される他のいかなる事実及び事態をも必要としないのである。であるから、実在者の実在にあってその実在は偶然的であり、個別的実在者がこのような偶然的に成立するような直接的実在者を与件として与えられているということによって、あらゆる個別的実在者は、根源的にその実在に必然性を持たない。もっとも身近な直接的実在者にしてなおかつ最も身近な個別的実在者であるところの「私」の実在においてこれを表現するのであれば、「私が実在することにはなんの必然性もない」、「<私>(<私>とは形式としての私、いかなるものであろうとも、私として考えられるような私のことを示す)がここに実在しているということにはまったく理由がない」ということになるだろう。
さて、このような直接的実在者における偶然性は、同時に様態においても偶然的なものとして実在しているのである。ところでこのこと、直接的実在者における様態は、直接的実在者の実在における与えられかたとは異なって、何よりも先ず各々の個別的実在者がその本質としているようなものの形式として、個別的実在者に与えられている。直接的実在者における様態とは、個別的な実在者におけるおのおのの様態、その実在者がリンゴであるとかレモンであるとか、そのような様態をもって成立していることにおいて、既につねに与えられているような様態である。
さて、様態の偶然とは、「ある実在者が何かしらの様態をもって実在することには、なんの必然性もない」という命題において表現される偶然性である。先述の通り直接的実在者とは無根拠で無原因な自体的実在者であるから、その実在のあらゆる様態において、その成立は偶然的である。ゆえに、直接的実在者の成立は、その様態においてもまた偶然的なものとして成立するようなものとして規定されていなければならないのである。あらゆる個別的実在者は、その様態における実在者として実在する限りにおいて、かかる直接的実在者の様態の偶然性を既につねにその様態の成立における形式として与えられているのであるから、あらゆる個別的実在者の様態は、まったくもって偶然的に成立した様態として、個別的実在者において成立する。先の実在の偶然における操作と同様に、この規定を「私」の実在においても適応する。すると、「<私>が私であることはまったくの偶然である」と言う派生的な、しかしながら表現においては実在の偶然におけるそれと酷似したものとして表現されることとなる。
このような表現は、たとえばわれわれがここにいるものであること、すなわち、日本人(あるいはほかの諸外国の人間)であること、あるいは、このnoteの記事を閲覧するような人間であることが、まったくもって必然的ではないということを意味するのであり、われわれの各々の「私」の様態の成立、現勢的な様態としての成立が、無限の可能的な様態のうちのたったひとつとして偶然的に成立しているに過ぎない、ということをも意味しているのである。
かかるふたつの偶然性において、直接的実在者と、それを与件として有する個別的実在者は、その実在において、あらゆる必然性を介さずに、偶然的なものとして実在しているということが明らかとなった。しかしながら直接的実在者とは弁証法的規定の元に規定されているのであり、それはつまり直接的実在者が同時に必然的なものとしても規定されている、ということを意味するのである。
B.実在者の必然性
直接的実在者の必然性とはつまり現勢における必然性である。
さて、直接的実在者の必然性にもまた、実在者の偶然性と対応するふたつの必然性が考えられる。ひとつは実在の必然であり、もうひとつは様態の必然である。
実在の必然とは、直接的実在者が自体的に必然的なものとして現勢的に実在しているということである。言わば、「ある実在者がそこに実在しているということは不可疑である」ということであって、このことはまた、実在の現実性としても言い表すことが出来る。αにおいてわれわれが原理としたもののように、私はわれわれのおのおのにとって確実なものである私として、不可疑なものとして実在する。「<私>がいかなるものであろうとも、<私>は不可疑なものとして実在している」のである。このような直接的実在者の実在の現実性、もとい実在の必然性とは、かかる原則を実在論的範疇において言い表したものである、ということが出来る。デカルトが"je pence, donc je suis"、として言い表し、後にcogito ergo sum"として知られるようになった原則のように、われわれは、われわれのおのおのにとっての実在者としての私、もっとも典型的な直接的実在者としての私の実在を内在的に既につねに与えられたものとして有しているのであって、このような与件においてわれわれは、われわれ自身であるところの実在者たる「私」の実在を、必然的に、言い換えれば「私が考えうるということにおいて私は<私>の実在を必然的で不可疑なものとして与えられている(私が考えているなら私はある)」のである。このような、直接的実在者が同一的に成立するということによって、直接的実在者のふたつの必然性、実在の必然と様態の必然が根本的に基礎づけられることとなる。かかる必然性のもっとも簡易で明快な表現とは「あるものはある」という同一律である。
様態の必然というのは、個別的実在者が既につねに与えられている形式である直接的実在者の現勢的様態の成立の必然であり、またこれは実在の必然と同様に、様態の現実としても言い表すことが出来る。直接的実在者は自体的に、無根拠かつ無原因に成立するのであり、これがまさに様態の偶然を導いたのであるが、しかしこれは同時に様態の必然をも導くのである。直接的実在者が自体的に成立することによって、まさに直接的実在者の形式的な、現勢的様態が不可疑のものであるということが導かれる。
さて、直接的実在者の必然性とは、直接的実在者の同一的成立によって基礎づけられるものであるから、このような様態の必然もまた直接的実在者の同一的成立によって基礎づけられる。このような必然性においては、直接的実在者の様態の必然とは、あるものが「あるものである」ということは、それが「あるもの」であって、ほかの「ないもの」ではない、ということである。さて、われわれにとってもっとも確実で典型的な直接的実在者とは「私」のことである。であるからわれわれは「私」の現勢的様態についての考察をもって、このような直接的実在者の様態の必然を考究することとしたい。
 端的に「私」の様態の必然を言い表すのであれば「<私>とは他者のことではなく、私そのもののことである」となる。「私」がいまあるような様態として成立「する」こと、「私」の可能的様態にはなんの必然性もないのだが、「私」がいまあるような様態として成立「している」こと、現勢的様態には必然性がある。このことは、「私」とそれに対してほかの実在者であるもの、「他者」との関係において考えることによって明白なものとなる。
われわれの各々がそのつど直接的に「私」である実在者の形式的な様態は、それ自身<私>が私であること、私として知られているような様態をもって私が実在していることの証明として、いわば<私>が他者ではなくて私であること、私が<他者>(<私>における用法と同様に、形式的な他者を示す。)ではなくて、<私>であることの証明として、既につねに与えられている。「私」と「他者」とのかかる関係において、典型的で、われわれにとって最も手元である直接的実在者である<私>の形式的な様態の必然性が、個別的実在者と、われわれの各々にとって、そのつどそれとして知られている「私」の具体的な様態の必然性、および様態の現実性を証明するものとして、個別的実在者としての「私」に既につねに与えられていることが明らかとなったのである。

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