わたしにとっての「書く」こと
「書く」ことが好き。
いろんな場面で、そんな言葉を口にしてきた。
でも、その好きなことを存分にできるnoteで記事を書くことなかった。
自分でも理由はわからなくて「何でだろう」と首を捻るばかり。
これは、これまでの自分の「書く」を振り返ったら見えてきた、わたしにとっての「書く」と、これから足を踏み入れてみたい「書く」についてのお話。
淡々と細々と「書く」をつづけた10年間
いつからだろう。「書く」という行為を楽しいと感じたのは。
「書く」という行為そのものには、小学生のころから触れていた。
当時、国語や算数を教わっていた家庭教師の先生が、偶然作文指導をしている人だった。
学校の勉強のついでに、勧められるままに読書感想文やちょっとした物語を書き、コンクールに応募した。
それなりに頑張って、ことごとく落選して、ちょっと悔しいけど、まあいっか。そんな気持ち。
別に楽しくもなければ、かといって苦でもなかった。
中学生になって塾に通い始めても、作文だけは習い続けていた。
そのころになると、コンクールでも佳作くらいは入賞するようになって、だからといって得意になるでもなく、淡々と賞状を受け取った。
高校生になって、大学受験の勉強や部活が忙しくなったこと、推薦入試は受けないから小論文の対策はいらないこと、そんな理由から、あっけなく10年におよぶ作文指導は幕を閉じた。
「書く」ことが好きになり始めた大学時代
大学に入学してからも、相変わらず淡々と「書く」ことは続けていた。
というか、続けざるをえなかった。
レポート課題や試験など、文系の学部というのは文章を書く機会が多い。
3年生になってゼミに入れば、数万字におよぶ論文執筆がお待ちかねだ。
細々とはいえ、曲がりなりにも10年も作文を習っていれば、適切な文章構成や言葉選びなどは少なくとも人並みにはできるようで、「わかりやすい」と言っていただけることがちらほらあった。
サークルで英語スピーチの原稿を書いたとき
ゼミの論文を書いたとき
短期インターンの感想を書いたとき
「文章書くのうまいね」という何気ない一言に喜んだ。
自分では「うまい」と思ってもいなかったから。
それでも人間とは単純なもので、褒められればやっぱり嬉しい。
「書く」こと、得意なんだな、わたし。
気づきが自信になり、そのころから、「書く」ことが好きです、と口にするようになった。
わたしにとっての「書く」との出会い
私の中で「書く」という行為の存在が大きくなったのは、大学3年次を終え、休学したときだ。
東南アジアのミャンマーという国に滞在し、現地の日系企業で約1年間のインターンをした。
(なんでミャンマー、というのは、ここでは1回おいておくとして…)
そこでわたしが関わったのが、ライター業務。
スラムで暮らす人々の生活や仕事をインタビューして、記事にする仕事だった。
「書く」ことが好きだから、というよりは、いわゆる貧困層・BOP層と呼ばれる人々のリアルな暮らしを知りたかった、ただそれだけ。
院進するにしても学部のうちにフィールドワークの経験があるに越したことはないし、就活するにしても「ソーシャルビジネス」とは結局何ぞやというもやもやを晴らしておきたい。
「インターンには主にライター業務やってもらう予定だけど、良いかな」
という社員さんの言葉に
「書くことは好きなので、大丈夫です」
とあっさり答えて、深く考えもせずにミャンマーに向けて飛び立った。
そして、「書く」ことが生活の中心となったのだった。
(若き日に書いた記事たちが載ってます。ひょえ~)
当時のライターとしての主な業務内容は、
・ミャンマー人スタッフに英語⇔ミャンマー語の通訳をしてもらいながら、インタビューをする
・取材内容を日本語で記事にして、発信する
という、2つ。たったそれだけ。
それが、どうしようもなく、楽しかった。
現地の人々の暮らしやライフヒストリーを知ることも単純に楽しかったけど、それ以上に、それらを言葉に落とし込むことに、わたしは没頭した。
どんな言葉を使ったら、あの優しいまなざしが伝わるだろう。
どんな言葉を使ったら、あの強さが伝わるだろう。
どんな言葉を使ったら、あのまっすぐな努力が伝わるだろう。
自分が見たスラムの様子を、インタビュー時にふれた温度感とともに伝えたくて、言葉選びや文章のリズムに徹底的にこだわった。
違う文化や環境でも、自分と同じように日々一喜一憂して生きる人々の姿、思いもよらない工夫がつまっているインフォーマルセクターのビジネスや暮らしを、そのまま伝えたくて、必死だった。
決して、質の高い記事ではなかったかもしれない。
でも、実際に記事を読んでくれた人たちから「おもしろかった」「ミャンマーに長く関わっているけど、知らないことだらけだった」という言葉をもらえることが、とてつもなく嬉しかった。
「文章を書くのが好きな人が書く文章だよね」
そんな言葉に、心が弾んだ。
ああ、書くことって、伝えることって、楽しい。
10年以上「書く」ということを続けて、初めてそう思った。
自分にとっての「書く」とは何か、やっと出会えた瞬間だった。
無味乾燥に情報を伝えるのではなくて、言葉に熱量や温かさをこめること。
自分が書いた文章で、読んだ人の知る世界がちょこっと広がること。
それが、わたしにとっての「書く」喜びであり、動機だと知った。
今のわたしと、「書く」こと
あれから、数年が過ぎた。
当時大学生だったわたしは、社会人向けの教育サービスを運営する会社で働いている。
「書く」ことが好き
その気持ちは、今でも変わらない。
実際、仕事でも教材を「書く」という業務をGETし、今も日々文章を書いている。
どんな言葉を使ったら、読み手の気持ちに寄り添えるだろう。
どんな言葉を使ったら、新しい発見に心が躍るだろう。
どんな言葉を使ったら、モチベーションが上がるだろう。
そんなことを考えながら、毎日せっせと言葉を紡いでいる最中だ。
少しでも、講師であるわたしたちの想いと熱を届けられますように。
少しでも、読んだ人の世界が広がりますように。
そんな気持ちで、「書く」ことを続けている。
「書く」ことは好き、でもnoteが書けない
さて、最近、身近でnoteを書く人が増えてきた。
外出できない時間を、自己内省やアウトプットに充てているようだ。
かくいうわたしもその1人。
読書やオンラインセミナーも楽しいけれど、インプットばかりでちょっと疲れちゃったし、この際「書く」をやってみようかな。
そう思った。
でも、いまいちモチベーションが上がりきらなかった。
これまでも、書いてみたかった。
いや、実際書いたこともあるのだ。
でも、続かずに、消してしまった。
いやいや、わたし「書く」こと好きじゃん。
そんなツッコミを自分に入れながら、改めて自分にとって「書く」行為って何だろうと振り返って書いたのが、このnoteだ。
ここまでの自分の「書く」活動を振り返ると、既に存在する情報を工夫して届けるという行為が多い。
論文しかり、ライターとして書いた記事しかり、教材しかり。
もちろん、ある程度自分の意見を添えながら書いているものもあるけれど、基本的に自分の感情や想いをメインとして書くことをしてこなかった。
だから、わからないのだ。
noteに何を、どう書いたら良いか、ということが。
「書く」ことが、好きなのに。
もちろん、情報をわかりやすく届けるという強みはこのまま持っておけば良い。
でも、せっかく「書く」ことが好きなら、自分が触れてこなかった領域に、ちょっと足を踏み入れるのも、良いかもしれない。
家にいる時間が増えた今、ふとそんなことを思ったのだ。
わたしにとっての「書く」ことを広げる
書くという行為は、思考を鍛える。
情報整理を10年以上頑張ってきたこの脳みそに、わたしなりの思考を深めるとか感情に向き合うとか、そんな刺激を与えてみても、良いかもしれない。
そんな気持ちが、やっとこさ言葉になったのが、この記事だ。
数万字の文章を書いてばかりいる人間の文章はお察しの通りとっても長いし、心に刺さるポイントを作るとか文章全体の波を作るとか、そんなことはとんでもなく苦手だ。
だって、情報伝達しかやってきていないんだもの。
だから、ちょっとした挑戦だ。
「書く」ことが好きだからこそ避けてきた、でもきっとその中でもがいてみたら楽しい、そんな領域への挑戦だ。
「書く」ことが好き
その気持ちを捨てたくないので、ゆっくり、細々書いていこうと思う。
読んだ本について書いてみたり、仕事で学んだことを書いてみたり。
ふと振り返ったときに、わたしにとっての「書く」ことの意味が少し広がっていたら良いなと思いながら、書いてみよう。