もうひとりの自分と関わる -イマジナリー・フレンド-

イマジナリー・フレンド、日本語でいえば、「空想上の友だち」となりますが、心理学の世界では、かなり知られた概念です。

小さい頃、この、空想上の友だちを持っている人は、結構たくさんいます。

たいてい同性で、遊ぶ時に、実際に声を出しながら対話します。

名前をつけている場合もあります。

このように言うと、実は自分もそうだったと思い出す人はいるのではないかと思いますが。

著者である私にも、いましたね。

このようなイマジナリー・フレンドを持つようになる理由は、心理学者によっていくつかの仮説が立てられています。

まず、前提として、一人で安心していられる空間を家の中に与えられていることが多いとされます。

そして、その「友だち」を持つ子供は、きょうだいがいないか、いても自分と年が離れていることが少なくないそうです。

でも、親はその子供を放ったらかしにしてきたわけではなくて、普段から子供に関心を持ち、声をかけつつも、子供の行動には干渉はせずに、自由に遊ばせるような態度をとっている。

つまり、まずは、親が子供に語りかけるその様子を、子ども自身がまねすることからはじまることが多いわけです。

親は「そんな人いないよ」と否定することはありません。子供のままごと遊びとかではあたり前のことですから。

でも、その子供は、友だちも少なく、ひとりぼっちと感じていることが少なくない。そういう寂しさを埋める役割を果たしているわけですね。

その「友だち」を、親が子供を叱るように、いじめてばかりのこともありますが、自分にとっての理想像であることも多いそうです。

(中略)

・・・ここで少し、「空想上の友だち」と「幻覚」の違いについて、かなりマジなことを書いておきます。

「幻覚」というのは、統合失調症の人に「見える」「聴こえる」場合があります。

「見える」ことはあまりなく、「幻聴」だけの場合のほうが多いのですが、いずれにしても、本人には、全く空想の余地がないものとして、実際に「見え」、「聴こえる」のです。

コミックやアニメで時として描かれているような、幻想的なヴェールやオーラのようなものにつつまれていたり、声にエコーがかかったりしないのです。ほんとうに実在の姿や声と同じ、生々しい存在として体験されています。

それが自分の空想や思い込みの産物であるとは、本人にも全く感じられません。

ただ、何かとても恐ろしい体験だとは本人も感じていることが多いようです。

また、統合失調症では説明できない、非常に宗教的な、あるいはスピチュアルな体験として生じる人もいます。ほんとうに神や天使やキリストや仏様、あるいは精霊の声が聴こえ、姿が見えるわけですね。

いろいろな宗教の開祖や、後に聖者として讃えられる人が、こうした体験をしたと、書物に書かれています。こうした人は現代にもいます。

本人には嘘をついているつもりは全くありません。本気です。

自分たちのような人間とは異次元の、畏(おそ)れ多い、神聖で高貴な存在との出会いの体験、しかも特別な時の体験として感じられているようです。

そうした体験をきっかけとして、その人の人生は変わってしまい、聖者としての活動をはじめ、それを信じる人たちがまわりに集まってくることも少なくありません。こうして、新しい宗教が始まることもあるわけです。

少なくとも、それをきっかけに、それまで神様とかの存在を全然信じていなかった人が、教会の熱心な信者になったり、お坊さんになるためにお寺で修行をはじめたり、自然の中で瞑想をはじめたりすることは結構あるようです。

もちろん、こうした宗教的・スピリチュアルな体験をしたと主張する人の中には、実はただの空想であることを自覚しているのに、人々を騙(だま)して金儲しようとしている人もいて、他人がそれを区別するのは難しいのです。

ではそういう人と関わるしかなくなった時にどうすればいいのでしょうか。

その人を聖者としてたてまつる必要はありませんが、少なくとも、ご本人が神さまや天使や精霊や、仏様と出会ったというのを否定しないでおいてあげる方がいいことは多いです。

多くのカウンセラーがそういう態度をとることを勧めています。

これに対して、イマジナリー・フレンドと共に過ごす体験は、楽しいもののようです。そして、本人もそれが自分の空想だとどこかで気づいていることが多いです。

こうした「空想上の友だち」は、子供時代を過ぎると、多くの場合、いつの間にかいなくなってしまうものです。でも、青年期になっても、こうした「友だち」がかけがえのない存在である人も、時にはいます。

(中略)

ここで、「空想上の友だち」との関係から話題を広げて、私たちも、「もうひとりの自分」を話し相手として意識した方がいいということについて触れます。

自分をダメだと責めて、自己嫌悪するばかりになるようでしたら、「あなた」のことを思いやるあまりに、「あなた」の都合などおかまいなしに、いろいろ警告をしたり、おせっかいの押し売りをしてくる、「もうひとりの自分」がいるのだと思ってみるのもいいかもしれません。

そして、そういう存在に向かって、「『あなた』の言い分も一理あるけど、ちょっと聞き飽きた気もする。ちょっと黙って、『私』がやりたいようにやってみる様子を、見ていてくれないかな?」とお願いするのです。

同じようにして、「あなた」のグチや泣き言やホンネを、なんでも聴いてくれる、「カウンセラー」のような存在を、心の中にはっきり作ってしまうのもいいかもしれません。

そうすると、「あなた」自身にも、自分自身のほんとうの気持ちや、ほんとうは何をどうしたいのかが、冷静に見えて来くる場合があります。

カウンセリングを受けるというのは、実は、こういう、「自分の中の『カウンセラー』」を育てることである、とも言えます、結局は、相談しているカウンセラーとのカウンセリングは、いつか終わりにしないとならないのですからね。

実は、こうして、自分の中のいろいろな「自分」と、焦らずじっくり「対話」できるようになる、ということが、その人のほんとうの心の成長ではないかと、私は考えています。

これは、私が学んだ「フォーカシング」という心理技法で、すごく大事にしていることなのですが、これ以上書くと、わたしのやっているカウンセリングの宣伝になってしまいますので、このへんで遠慮しておきます。

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今度新たに出させていただく本の原稿から、その抜粋をコピペしたものです。

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