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全家財道具を訪問した大学に置き忘れる夢

夢をたて続けに見た。

1つ目。

私はある大学の学園祭を訪問している。

気がつくと、ある出店が開かれたいたその建物の一室(当初は普段はゼミとかに使う部屋のように思えた)に、スマホとクレジットカード等の入った財布と背負ったリュックを置いたまま、私はタバコと携帯灰皿とライターだけを持って、大学の構外の随分離れた場所まで外に出てしまっている。

私は荷物を置いてきたことを思い出し、あわてて大学の構内に戻ろうとするがどの建物かすら当初忘れていて、焦り、途方に暮れる。

恐らくこの棟だったろう、そのこの階の一室だったろうというところまで戻るが、すでに学園祭は終わっていて、通常の講義が再開されていて、その真っ最中のようで、今更中に入りづらいことに困惑する。

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ここで一度私は夢から覚め、悪夢だと思った。

そして、そうしてこういう夢をいたのかはすぐに思いあたった。

その大学は、私の夢の中にしばしば登場する(学会で3回ほど行ったことがある)、大規模な指定校大学院がある総合大学である。

なぜその大学が出てくるのかと少し考えてみたが、それは全く別の、2人の臨床心理士の方と関連しそうだと気づく。

そこに「私の大事な荷物を一式置き忘れ、どこに置き忘れたのかも覚えていない」というのが何を意味するのかもあたりがつく。

眠り込む直前、私は現在本の原稿を書いていて、ある章が来るまで自信満々だったのだが、突如ある章にあてる「事例」のデータを詳細に数時間かけて点検すると、実はそのデータが全く空疎であり、そこから何か考察めいたことを書ける自信を失っていた。

それを引き金に、自分の書こうとしていた本の内容が、当初の構想のあてが外れて、今後まともな内容の章を書けないのではないかという不安に一気に襲われた。

それは更に、その本の構想と、そこで一発大逆転して、今後の私のカウンセラーとしての経営の軌道を順調にしようという構想自体の底の浅さと、そこに「みせかけの自分」を構築しているのではないかという絶望感を引き起こした。リアルな私の実情は、その程度のものではないのか?

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ここで私はまたいつの間にか眠り込み、夢の続きを見ている。

私は自分が荷物を置いてきたのは、現在講義が再開されている教室のある階の下の、半地下の、部屋が並んでいる階であることを思い出す。

そこは、学生とか教師とかが一時的に宿泊するための、6畳くらいの部屋が廊下に並んでいる。

その中のある部屋に荷物を置いてきたはずと、あたりをつけて入室すると、そこは家具のある畳部屋になっている。

ここで、私が置き忘れてきたのはリュック等だけではなく、そもそも私が独身時代に繰り返し引っ越す際に移動させていた家具一式(1000枚のCD等も含まれる)であった、ということに夢は拡張されている。

その部屋の中に、ひとりの男子学生がすでに「住んで」いるわけだが(ここで夢はそこが「学生寮」の一室であることに拡張)、私は私の荷物を知らないかと尋ねる。

すると、突如その学生の母親が現れる(ここでその部屋は学生と親の住む、少なくとも2部屋あるアパートの一室ということに拡張)。

そして、その母親から、「安心して下さい。荷物は皆、今あなたの住んでいる住所へ送りました」と言われる。

私はほんとうに全部の荷物を「選り分けて」送ってくれたのかどうか一抹の不安を覚えるが、ひとまずほっとする。

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ここで再び目覚める。

どうも私は私なりに学生時代から積み上げてきた「蓄積」を確かに今も「所有」しているのであり、それを「見失って」いただけで、ちゃんと再確認できている気がした。

そこで、その章にあたる内容に関連する情報をネットで調べ始めるが、どうもその「事例」そのものが、他の事例に比べると、ネット界全体での情報量がそもそも薄いことに気づく。そもそも固有な特徴に乏しい事例であるということ。

そして、なるほど、その章の内容は他の章より薄めになり、「何とかでっちあげる」水準にとどまるかもしれないのもやむを得ない、30章も書くのだから、埋め草にそういう章が出てきてもしかたないではないかという思えるようになる。

すでに書いた章は、確かに興味深い「事例」が多く、内容も充実しているという自信を回復した。興味をひく「事例」から順不同に執筆しているので、今後薄味の章は増えてくるかもしれないが、全体のクオリティとしては何とかなるだろう。

その章の事例を書かないでおくことによって「網羅性」を失うことの損失のほうが大きいと判断できるようになった。

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ここで私はまた寝てしまう。

外国の鉄道に乗っていて、駅から降りた所。私は警察に監視されている。私は(正確には忘れたが)ルパン3世か「シティハンター」の冴羽獠みたいな存在自身になっている。

霧の中、ロシア風の洋館の並ぶ行き止まりの壁に追い詰められそうになった時、私は「絶対に追い詰められない」と警察官たちに言い残し、壁に向かっでダッシュをはじめる。

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目覚めて振り返ったが、これもわかりがいい。

警察とは、私の超自我だろう。しかし私はその「監視」をまんまとくぐり抜けてしまえるという自信にあふれた、ダーク・ヒーローのような存在になっている。トリックスター的とも言えるかも知れない。

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ここでまた寝てしまう。

私の本(今回とは全く別のテーマということになっている)の内容には、一切の取りこぼしもなく、つけ入る隙がない、完璧な仕上がりと誰もが認めるしかなくなっている。

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夢を見ることと、目覚めてワークすることの往復が、一連の過程として成立しているが、それは私が普段から自分の夢に向き合うことを完全に習慣化しているからである。

この背景には、私が臨床現場でも使いこなしている、ジェンドリンの「夢フォーカシング」のスキルを、何よりまずは自分のために身につけているということにある。


夢と向きあうことは、起きている時に不可能な次元で、「現実」と向き合うためのきっかけとなるのであり、そこでのワークは、「現実の」具体的な自分の生き方を変えていけるほど強力なものである。

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夢の「解釈」にはいろいろ専門的知識が必要と思われているかもしれないが、「いかに(how)」解析していくかの方法論は意外とシンプルであり、これは完全に定式化可能である。

これについては、私の書いた「入門フォーカシング」でも、一章を割いて、ジェンドリン自身の上記の著作を整理する形で、その方法をかなりくわしく書いている。

今後のZOOM上のワークショップでも、テーマにしていくつもりがあるのでお楽しみに。

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