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相模原、津久井やまゆり園殺傷事件の原因・背景について、もっと具体的に検証する必要がある。そして、私たち自身の中にある、障害者排除の心理に向きあうべきだ。

あの悲惨な事件から5年以上たちました。

Twitter上には、植松死刑囚の障害者差別とヘイトクライム、優生思想を、あってはならないこととして振り返るツイートが溢れかえっています。

しかし、私はそれらが理念的一般論になっており、フィールドワークとして、植松死刑囚の施設内で利用者と、具体的にどのように関わっていたか、そしてそれが施設内でどう受け止められていたかの具体的再検証に踏み込んでいないものばかりのように思われてもいました。

その一方、やまゆり園の内部では、職員の利用者に対する暴力と虐待が日常化しており、そのことが問題視されるようにもなっていたという情報も、ネット上のどこからか目に入っていました。

「障害者差別」「優生思想」が良くない、と啓蒙するだけでは問題は何も解決しないと思う。まずは障害者を支えることの「たいへんさ」を分かち合うところからはじめねばならない。

本日、私のツイートラインのYahoo!ニュースに、次のような記事が流れて来ました。
●内部資料が明かす植松聖死刑囚と津久井やまゆり園の支援の実態(創)

https://news.yahoo.co.jp/articles/d928651089d2e568c65528d43f7913c492d35ce1

この渡辺一史氏によるレポートは、やまゆり園の内部資料と、実際にやまゆり園に勤務したことがあるT氏の証言に基づいて、植松死刑囚が利用者にどのように接していたが、それは施設内でどのように受け止められていたか、やまゆり園という施設の職員の利用者に対する暴力と差別と支配の実態についても渾身のレポートとなっている。

それによれば、職員としての植松は、在職中に書いた「ヒヤリハット報告書」(実際に「ヒヤッとした」事件に対してどのように「ハット」気づき、具体的にどのように対処していったかについて、時系列を追って報告する書類)のいくつかの報告において、実は冷静で迅速な対応をしており、むしろ通常の職員より懇切丁寧で利用者思いですらあったことが伺われる。

しかしそうした植松の対処は、上司には認められず、ことなかれ主義の職場風土の中で、むしろ厄介者扱いされ、そうした中で植松が苦しんでいた様が描かれる。

そして、やまゆり園の施設の職員の間で、利用者に対して、差別と暴力と手荒な対処を行うことが常態化していたことが、元職員T氏の証言からも浮かび上がる。

植松がそうした中で無力感を深めていたことも間違いないようだ。

もとより、そこから、植松が、利用者をこれ以上生きていても仕方がない存在としてとらえ、無差別連続殺傷に至るまでの経緯についてはまだ飛躍がある。

しかし、植松自身が措置入院の処分を受け、「反省の弁がある」という理由で退院させられるといった経過の中で、植松のこころに一層の歪みと鬱積がたまり、植松自身の奇妙な使命感が誇大妄想的に広がり、確信犯となるに至る経緯があったように思われます。

もとより、植松の殺傷という行動化は、残酷な犯行そのものであり、許されるべきものではない。

しかし、障害者差別や優生思想はあってはならないと理念的に糾弾するだけでは、施設におけるリアルな現実は浮かび上がっては来ず、今後似たような事件が起こらないための処方箋にはならないと思う。

今も、多くの日本の障害者施設の中で、職員の利用者に対する差別と暴力的処遇が繰り返されていて、「事件化」していないだけであろうことを、じっくりと見つめねばならないと思います。

植松まではいかないだけの人間は、今も施設職員の中にいっぱいいる。

実際、やまゆり園内部での職員の暴力問題は、複数回報じられているのである。

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障害者差別を解消するためには、「世話をすることの大変さ」を抱えた人たちが、その大変さを、互いに共有し、連帯し、横のネットワークを持つことにことに、まずは基礎づけられなばならないと思う。

そして、それ以外の一般の人たちが、そういう世話をする人たちに、いたわりのこころを持ち、具体的に支えて行くことである。

差別を「いけないこと」とする「道徳」を広めることではないのだ。

一般の人たちは、そうやって障害者の世話をする人(家族、施設の職員)たちに、「任せて」いることを「恥じ入る」ことから始める必要があるだと思う。

それこそが、障害者問題を、社会が包摂し、各々が責任を持つことの基本なのだ。

誤解を恐れずにいえば、「障害者もひとつの人格を持つものとして公平に扱い、接する」などという道徳的で高尚な問題ではない。

だって、直接ケアする人たちは、たいへんなんだもの。

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私は、半年とは言え、最重度施設でのケアの経験を持っています。

テレビとかでも知的障害者が単なる天使とかではなくて、大幅な生活の介助が大変なことは伝えていると思います。

それはまさに、認知症老人の介護の大変さに「非常に」よく似ていると思います。

このへんに想像力を働かせれば、一般の人もそのたいへんさが共有可能と思います。

そして、知的障害も持つ人のcareの大変さがあるからこそ、施設職員の暴力的で手荒な扱いが誘発されるのだし、植松自身もその大変さを委ねらていた存在ということになります。

そういう、いつの間にか「暴力を振るう」人たちにすら、連帯し、共感することになります。

これでこそ生産的な、社会的包摂となると思います。

だから、私は「差別はいけない」と言うこと自体を敢えて「排除」したい。

だって、「たいへん」なんだもの。

敢えて、障害者の「人権」などという「高尚な」論理を排除したいんですよね。

敢えて言えば、そういう「大変な」人を捨ててしまう(この世から抹殺してしまう)のが許されるのか、という点のみが倫理的な問題だと思います。

いわゆる、障害者「差別」は、人種差別とか男女差別とは何か質が異なる事柄のように思います。

先程、障害者のcareは認知症老人のcareの大変さと実質同じと書きましたが、「老人差別」という概念はあるでしょうか?

「careするのがたいへんだ」・・・そこに回帰する問題と思います。

そういう、エゴイスティックな「本音」こそが、問題の核心を共有する基盤となると。

施設や専門家の手に委ねる時点で、その「たいへんさ」というエゴイズムゆえに、私達は障害者や認知症老人に対する「責任」を放棄しているともいえる。

そして、市民全体が、そうしたcareに対する「責任」を分有していることの自覚にもつながると思う。

行政の問題や法律の問題以前なのだ。

敢えて言えば、植松を生み出したのは、私たちひとりひとりの「責任」(というか、責任「回避」)なのではないか?

極論を承知で言えば、その私達の責任「回避」の帰結として、私達の「代理」となって、植松は重度障害者を「殺した」のであり、殺された被害者に対して、私達ひとりひとりが責任を追っているということになるのだと思う。

あまりに素朴な古めかし過ぎる論理展開になるかもしれませんが、福祉とは、私達ひとりひとりでは「たいへん」過ぎてかかえきれない問題を、国民主権である政府に、税金を払って委託する、というシステムであるという視点も必要かと思います。

だからこそ、消費税がほんとうに福祉のために使われているかどうか監視する責任が、私達にはあるのだと思います。

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