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人生が『今』だけではないことを知ろう、今すぐに。

「改善」と「許し」どちらがひとを死なせないだろう。
どちらも、だな。
そんなことを思った朝だった、過日の市川猿之助救急搬送のニュースは。

私は自殺反対派である、何がなんでも寿命で死ぬべきと思う、それが産んでくれたひとに対する最低限の礼儀だから。
私を産んだ母親は宗教洗脳により人でなしになって久しく、まともで冷静な対話が出来ないほど精神を病んでおり母子の縁を完全に切っているが、それでも産んでくれたことに対する最低限の礼儀として、寿命で死のうと思っている。

知人や身内の自殺を経験し、残された者のひとりとして、生きることのツラさを知らないわけではない。
とくにここ3か月ほどは子宮の病気の治療でホルモン剤を服用しており、その副作用に苦しむ中で、泣いたり喚いたりしながら只ならぬ気合だけで耐える一日を繰り返すたび「生き続けるのはしんどい」と感じる日々を体験した。

幸いにも根性があって意志も固いので「自殺だけは選ばん」と理性を保っているが、その一方で「いま寿命が尽きてもそれはそれでかまわん」とフと考える瞬間がある。
その瞬間に必ず頭の片隅で「いま正常じゃねぇな」を記憶から引っ張り出してくる。
「正常」がどういう状態か、を覚えているから。

病人の身体のツラさは確実に精神にも影響を及ぼすことを闘病で実感している、ということを私は頭で理解している。
ココ、重要なポイントではないかと思う。
「ということを私は頭で理解している」ていう正常性を知っているか。

身体が健康じゃないのは病人なんだから当然として「その影響で精神が病む」ことを理解し、正常な自分を頭に入れているかどうかがとても重要。
精神が病んでいる異常な時にその理解を思い出せ「正常」を引っ張り出せるかどうかが、自殺しないかどうかのポイントのように思える。

市川猿之助のニュースの内容から私がわかることは、両親は死亡、現場の状況から自殺を図ったとみられている本人は一命を取り留めていること。
自殺を図った原因は本人にしかわからないことだろうけれど、心身ともに正常ではなかったことは確かなのだろう、とくに心が。

今の私がもし死ぬ確率の高い病気を発症したら無治療を選んで最短で寿命が尽きる選択をするだろう、高い医療費を払ってまで治療を施し生きながらえようとは思わない。
難病を発症してから闘病10年もう一通りのツラさは味わったと思う、耐えられるだけは耐えたし十分に寿命を延ばしたハズだ、発症当時は息子ふたりがまだ学生だったが今や25歳を過ぎ母親の病死を受け止めるに足る年齢だと思う、ならば潔く私は無治療で自然な病死を選ぶ。

「治療をすれば完治する」なら治療を選ぶが「治療をして完治する可能性が50%」なら無治療だな、副作用に耐えることなく残りの時間を穏やかな日常として生きたい。
コレが持病が増えて手術にならないよう服薬治療をしている影響でメンタルが弱っている私の「死にたい思いの程度」である。

人間は心身ともに正常な時に、死を選ばないし、人を殺したいとは思わない。
心身ともに病んでいる私の「死にたい思いの程度」を仮に50%としよう。
事実、私は50%程度の死にたい思いではまだ自殺は図っていない。
ではこの状況で何が起こったら私は死にたい思いが50%を超え、そしてそれを実行するほどに異常になるだろうかと考えてみた。

「正常な判断を思い出せない時」である。

この4年くらいのコロナストレスでメンタルを病んだひとが私の周りで複数人いたが、その中のひとりに面と向かって「殺したい」と言われたことがある。
酔っ払いにぶつかられると「殺したろかァ」と言われるイメージがある大阪に30年ほど入り浸り、夏には盆踊りの櫓で盛大に酔っ払いに絡まれてきたが一度も言われたことが無い「殺したい」と。
大阪のガラの悪い酔っ払いでも言わない脅迫をクチにする事すなわち「とうとうそこまで精神に異常を来たしているのか…」と判断し、そのひととは距離を置いたので今のところ私は無事に生きている。

自殺を考えたり、人を殺したいほど憎む。
「自殺を考えること」「殺したいほど憎むこと」ソコまではギリギリのギリで正常かもしれない、考えるだけなら憎むだけなら。
でも実行に移したらもう異常だと思う。
いきすぎてしまわないために皆「正常な判断を思い出す」ことをしているのではないか。
思い出せれば自殺や殺人は実行に移さないが、実行したということは「正常な判断」が「思い出せなかった」のではないか。

思い出せないまでに自分自身を追い詰めた、追い詰めてしまったのも自分自身だろうけれど、そのきっかけはどこにあるのだろう。
週刊誌の記事?誹謗中傷?ネットの炎上?きっかけは他の誰かの言葉かもしれないが、その発端はそれまでの自分の言動にあるのだろう。
だから自分で自分を責める。
精神に異常を来たすほど責め尽くすのが自分という存在で、その正体は「良心の呵責」と呼ぶものなのかもしれない。
けれどもこの世の中で、清廉潔白でいつでも正しく一度も間違えずに生きてる人間なんていやしない。

他人が他人を責めるより、自分自身を責めるほうがずっと重くて苦しいことは、誰もが経験している。
他人の言葉によるダメージを使って、繰り返し繰り返し自分自身を攻撃してしまう自責の念に苛まれるほうが、深く精神を蝕む。

法を犯したなら償うべきであるが、加害者と被害者がいる場合に、被害者が求めているのは「謝罪」や「改善」であって、加害者の死ではないと思う。
正常な人間なら「死んで償え」とは思わないんじゃないかな「生きてちゃんと償え」と思うのがまっとうだと思う。

加害者が謝罪したり、間違いに気づいたり、改善をするのに必要になってくるのが「許し」ではないかと思える。
被害者が望む「改善」加害者が更生するための「許し」世の中が正常であるためには、どちらも必要。
被害者も加害者も生まない世の中にするために必要な「正常な判断」のために、心身の健康が必要。

生きていたら皆、間違う。
それを許し合う社会で生きることは、全員がちょっとずつ苦しいことだと思う。
自分の間違いを許してもらったからこそ他人の間違いも許すことが出来る。
「間違う自覚」と「許す配慮」はどちらも必要なのだな、と改めて感じた出来事が市川猿之助救急搬送のニュースだった。

47歳の市川猿之助、歌舞伎役者で一般人よりもいろんなストレスに晒されているだけにそれに耐え得る経験値も能力もあるひとに思われた、私の目には。
同じ歳で難病人の私でさえ、47年の人生でいろんな経験といろんな闘病を体験したことで「正常な判断を思い出せる」ようになった。
ホルモン療法はとんでもなくしんどい瞬間があるが「この一瞬を耐えれば」と正常な判断を思い出している。
病人の私の一瞬なんて何の生産性も無い一瞬であり、ただただベッドで横になっているだけの一瞬なので責任すら無い。
歌舞伎役者でましてや主演公演中であった市川猿之助の「一瞬」と私の「一瞬」ではわけが違うと思うが、同じ人間だからツラさは一緒だと思うしその「一瞬」こそがいかに苦しいかも知っているので、まずは自分で自分自身を「許す」ことが優先すべきことだと思う。

市川猿之助救急搬送のニュースに心を痛めたすべてのひとに当てはまることではないだろうか、大袈裟でもなんでもなくて。
「正常な判断を思い出せる」正常性を頭の片隅に置いて、自分自身をいつも許す準備が必要なんだと思う、人間てのは。

私は一瞬一瞬を毎日許し続け今日の闘病をして生きている。
起き上がれない瞬間を許し、洗濯に2時間かける自分を許し、家事が出来ないことを風呂に入れないことを許している。
「たった一日耐えればいい」と許しているし「この一瞬を耐えればいい」と許している。
自分自身を許して「正常な判断」を引っ張って来ている、毎日。

苦しい瞬間は誰にでもある。
「たった一日」でいい「この瞬間」でいい、自分を許して耐えないか。
許す一瞬を耐え続けたこの「たった一日だけ」を生きないか。
その「たった一日」を「一生続けるだけ」でいい。
苦しくて耐えただけの「やっと過ぎた一日」を良しとしよう。
そういう風に生きることを許してはダメだろうか、死を選ばないために。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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