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余白を語る

余白。

最近、この言葉について考えてみている。

小説とかアニメとかドラマとかで、あえて語られない背景というか、

受け手に想像させる、余韻を感じさせる 間 

って言うんでしょうか。
まだうまく言葉になっていないんですけど、そんな感じ。

今、ネットで検索すれば、大体の情報にたどり着ける時代にある。

初めて聞く言葉、人、出来事、歴史、流行、
そして今世界で起きていること。

調べようと思えばいくらでも調べることができる。

図書館に行って本を探して調べたり、人に聞いたりしなくても、たくさんの情報にアクセスできる。

手軽だし、早い。

そして圧倒的な量の情報が手元に入ってくる。

それは「知りたい」という欲求を、簡単に満たせるということ。

同時に「自分は全てを知ることが出来る」という傲慢さ?全能感につながって

そこから「全てを知らずにはいられない」という、最終形態に簡単にたどり着いてしまう気がする。

自分自身もそうで

全てを理解していないと、
なんだか居心地悪く感じるまでになることがある。

そして突き詰めたくなる。

全てを知ったと思えるまで。

こんなことを考え始めたきっかけが必ずあると思うんだけど、具体的に今は思い出せない。

ただ保健師という仕事を通して、本当にたくさんの人と出会ってお話させてもらっている。
その中で気がついたのだと思う。

例えば夫婦の関係。どうやって出会って、どんな経緯で結婚されて子どもを授かったのか。

例えばなんらかの支援を必要とするお子さんの親御さん。

どうやってその子のハンディキャップに気づかされて、受け入れて、今清々しい顔をしているのか(そう見えるだけかもしれないけど)

私はその人の歴史を「知りたいな」と思って、突っ込んで聞いてしまうことがある。

「どんな風に過ごされたんですか?」
「どんな風に感じたんですか?」と。

気持ちよく言語化して教えてくれる人もいる。

でもあえて多くを語らずに

「いろいろありました」

と独り言のようにつぶやく人もいる。

その「いろいろ」の言葉の向こう。
声のトーン。目線。表情。

余白たっぷりのその光景にたぶん私は「綺麗だな」って感じたような覚えがある。

余白を語るって言葉があるなら、きっとこういう時に使うんだと思った。


最初の話に戻りますが、欲のまま調べつくせる今の世の中。

この余白を許せない、あるいは余白の存在を知らない人が多くなったんじゃないかなと感じる。
もちろん自分も含めて。

説明してもらわないと気が済まない。

あえて語らぬことも語らせないと気が済まない。

オチが付いてないと批判するアニメやドラマの視聴者。

相手を全て把握しないと気が済まない、ちょっとDV気質な人達。

そして自分の見ている世界が全てで、

自分の知らない余白の世界があるわけないと信じて疑わない人達。


自分の知り得ぬ世界がある。

自分の知り得ぬ人達が世の中にいる。

そういう想像力の無さが、

例えば液体ミルクを使うのは甘えだとか、
虐待する親を「どうして可愛い我が子を…信じられない」とか、思わせてるのではないのかな。


いろいろあった と語ってくれた人のおかげで、私は余白が綺麗って思える感覚を知ることができた。

余白のある生活をしてみたいと思った。

それが具体的にどういう生活なのかはわからないけど、それがわかったら、またどこかで言葉にしてみたいと思う。