見出し画像

クラプトンを聴きながら ーEric Clapton Live at BUDOKAN 2023ー

僕の音楽的嗜好の素地に影響したのは、親父と叔父のそれだけれど、"範囲"を広げて行ったのは自分の力だったよな、と最近改めて感じる。例のアイツコロナと社会の関わり方の解が見え始めて、よく聴くアーティストたち、いわゆる外タレの来日も増え、久方ぶりに音楽に直に触れる機会が戻ってきたからだ。

誰が言い始めたのかわからない「世界3大ギタリスト」のひとり、エリック・クラプトンの来日公演に初めて参戦した。中学1年の時にベスト盤をiPodに入れ、YouTubeや、度々NHKで放送されるライブ映像に触れ続けてきたから、満を持して、といった心持ちだ。

・・・・・・・・・・

中学時代、人間関係に嫌気がさして部活を辞めた僕は、家に帰るとたいていギターをいじるか、家に犇くCD群、あるいは当時(合法か違法かはともかく)コンテンツが増え始めていたYouTubeで音楽を漁ることが多かった。それは、辞める際に担任と交わした『勉強以外になんでもいいから続けることを見つける』という約束の一部でもあったわけで。
当然、既知なアーティスト以外に触れる上で大いに役立ったのは後者で、出てくる関連動画に手をつけては、また違うものへとどんどん深みへとハマっていった。
(だから、僕は昨今の"音楽プラットフォーム(聴き方)の変化"を、全面的に否定することはできない。確かに演者が儲かりにくい形かもしれないが、リスナーが新たなジャンルを開拓する点では革新的なしくみだと思う。ただ、リスナーがイイ!と思ったらすぐに演者に還元するマインドがもっと定着すれば最高だとも。)

それを踏まえて、叔父や父親と音楽の話になると、「そいつのCD持ってるぞ、貸したろか」という話になる時もあれば、「いやぁ、俺はあんまり聴かないな」という時もあり。新ジャンルを開拓するにつけ、次第に後者が増えいった。

エリック・クラプトンはまさしくその典型だった。
3人ともギター弾きにもかかわらず、『金を出してまで観たいと思わない』というのが二人の弁で、対する僕は『一度は観てみたい』とハッキリ分かれていた。もっと玄人向けに言い換えると、二人は「圧倒的ジェフ・ベック派」で、僕は「どっちもいいじゃん、っていうか、互いに演ってる事が違いすぎて比べられんやろ」というスタンス。まぁ、リアルタイム世代とそのレガシーを見てきた世代とで、捉え方が違うということもあるのかもしれないが。

・・・・・・・・・・・

地方在住の僕にとって、東京でコンサートを見ること自体が新鮮な体験をもたらす。これまではたいてい名古屋で観るのが常で、それ以外は大阪と仙台が1回ずつ。東京は一度だけ。それにもかかわらず、昨年のKISSのおかわり公演(@東京ドーム)に次いで、この初武道館ライブ。立て続いて東京まで遠征するとは思いもよらなかった。
今回のツアー中に"海外アーティスト初の武道館公演100回"の大台に乗るということで、せっかくなら、とその当日を申し込んだら当たった。しかもアリーナ最前ブロック。

グッズ先行販売前の一枚。開始1時間前なのに、すでに相当な人が並んでいた(看板上回廊)

先行物販に並んで、同行者の分のグッズも買うと、一度宿に戻り、それに身を包んでから再び武道館に向かう。開演1時間前、既に九段下は老若男女問わず多くの"それらしき"人々で溢れかえっていた。

Tシャツだけでもかなりの種類がある中、せっかく100回目の公演に行くのだからと、背面に"100th"と書かれていたものを。
買ってから気づいた、なんだよこのカタカナ…。

入場の谷間だったのか、スムーズにアリーナへ足を踏み入れる。予想通り、席はかなり下手に寄っていた。
目に入った舞台は至ってシンプル。天井からは"米"の字型に配された照明に加え、スピーカーと小さめのスクリーンが一対吊るされているだけ。そもそもステージには幕すら張られておらず丸見え状態。(楽器絡み以外で)他に目立つものといえば、IKEAでベッドサイドランプとして売られてそうな形をした照明群と、センターに"聖域"を示すかの如く敷かれた絨毯くらいのものだった。
入場から開演前のこの数分で、例えばKISSのような、楽曲から飛び道具まで、ステージングを丸ごとエンターテインメント・ショーとして魅せるアーティストとは真逆の、「そんなものはいいから、俺達の音だけ聴いてろ!」という凄みすら感じられた。

開演のアナウンスとともに場内暗転。呼応してステージ照明がジワリと明るくなると、メンバーが続々と持ち場につく。最後に御大登場。場内総立ち。このまま立ったまま観るものかと思えば、スタンディングオベーションもそこそこに全員着席。それに倣って自分も慌てて座り直した。

終始圧倒されっぱなしだった。年齢的にキャリアの最終盤であることに間違いはないが、歌声に衰えは見られず、ギタープレイもいい意味で"枯れ"ているが、それは(少なくとも僕には)"残念さ"のようなものに結びつかなかった。それどころか、晩秋に木々の色付きがまた一段と深くなるような、「まだまだ終わらないぞ」という勢いすら感じられた。彼が時代を共にしたアーティストたちが次々と世を去る中、それが残された側の使命であるかのように。

開演前こそ席がかなり下手側に寄っていたことを残念に思っていたが、ほどなくして「ここで良かった」と思うようになった。ーーここからは完全に"ギター弾きとしての視点”に偏るがーープレイヤーがギターを弾く際、体に対して平行に構えることは稀で、たいていブリッジ側がプレイヤーの手前に、ヘッド側が向こうに傾く。したがって、右利きの彼と正対すると、下手側はその手つきのほぼ全てが見える位置だったのだ。

武道館公演100回を記念したセレモニーを挟みつつ、終演。
まず第一に、(おそらくその場にいた全員が感じていたと思うが)まさかLaylaを演ってくれないとは思わなかった。前公演まではセットリストに入っていたようだが、その場所はCocaineに差し代わっていた。
うーん…。天ざる目当てに蕎麦屋に入ったら、こだわり強い店主に「俺が出すもん黙って食え!」と、天ぷらだけを出されたような心持ち。
いいんだ、いいんだよ。いいんだけどさ、でもやっぱり俺はやっぱりざる蕎麦も食べたかったよ。

そしてもう一つ。開演前までは、「映像でも音源でもない、生演奏を観れば、彼がなぜ"Slowhand"と呼ばれているのか、何となく判るのではないか」と期待していた。

「なるほど、よくわからん。でも、彼は間違いなく"Slowhand"だ。」

何言ってるのかわからない?僕だってそうだ。
しかし、これが終演後の嘘偽りなき感想だった。


その2へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?