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はじめてのこと、かわらないこと

冬になると、朝がとても澄んでいてうれしくなります。
目を覚ましたときの布団のぬくもりも、耳たぶのつめたくなっているのも、冬が来た感じがしてとても好き。

カーテンをあけるとガラス窓に結露があって、しろくかすんだなかをつうっとしずくの垂れてゆくのも、そのしずくの跡から光のさしてくるのも、冬の朝、という感じがします。霜のおりた地面をあるくときも。はく息のしろさも。



最近、カメラを買いました。
フィルムカメラは初心者には無謀かな、と思ったのですが、直感を信じることにしました。
取扱説明書とにらめっこして、電池の入れかたから電源の入れかた、そういうところから学んで、こわごわとフィルムをセットしました。
ピントのあわせかたもよくわからないまま、でもごろっとしたカメラを手に持っているともうそれだけで愛おしくて、これからゆっくり、仲良くなろうと思いました。

どう撮れているかわからないことも、現像に出しに行って、できあがるまでのどきどきした気持ちも、いつか忘れてしまいそうだけど、たしかにここにあったこと、残しておこうと思って書いています。


うまれてはじめて自分のカメラを持つし、この子の得意とすることも、私が撮りたいものもまだ探り探りで、なじめていなくて、かえってきた写真も「…うん」みたいなものばかりだったのですが、失敗しながら、長く楽しんでゆきたいです。
まだとても下手だけれど、でもはじめて撮ったフィルム写真で、なんだかとてもうれしかったです。


(ピントとはなんぞや)


ときどきほんとうに、ことばを発することがこわくなります。沈黙してしまって文字ひとつ、外に出せなくなる。でもそんななかでも季節がうつろって、木々が葉をおとし冬芽をつけて、道端に実がぽとぽと落ちている。きれいだな、と思うものをだれかに伝えたい気持ちからはなかなか自由になれなくて、そういうときに、写真があったら、ことばが一切つかえなくても自分をとじずにひらいてゆけるかもしれない、と思いました。


写真家ルイジ・ギッリが『写真講義』という本のなかで、写真フォトグラフィーアとは、光で書かれたもの、と言っていて、その言葉がずっと響いています。光で、書くこと。私は漢字の読み書きがおぼつかなくなったこともあるし、あたまにもやがかかると言葉の意味が遠ざかってしまう、自分とことばとの距離が開いてしまうようなときが避けがたくあります。書きたくても書けないとき、撮る、それもひとつの書く行為なのだということに、すこし救われる思いがしました。

そのいっぽうで、私が書きたいのはたぶん、目に見えないものだという気持ちもあります。
冬の朝流れてくる野焼きのにおい、森のしずけさ、鳥のさえずり。原っぱに残る、そこにあったかつての村の名残、いまはもういない人たちの息づかい。ことばだからこそ立ちあげられるものもあるということ、忘れずにいたいです。



光や色やことばで、書くということ、ひとが表現をするということ。ときに命をそこなってでもそれにむかわせるのは、やっぱりそこに「伝える」ということの深さがあるのだと思います。うけわたしてゆく。つなげてゆく。
いまこうして生きて、書いてゆけるということ、それをうけとってくれるだれかがいるかもしれないこと、かけがえのないことだと思うからこそ、私もまた、ひとの伝えようとするなにか、うけわたされたなにか、だいじにだいじにつなげてゆきたいな、と思っています。





はじめて記念の記事でした。とても拙いですが、見てくださり、読んでくださり、ほんとうにほんとうにありがとうございます。
今日もよい日になりますように。


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