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しんとした世界

野分のあした、という言葉が昔から好きだった。

つよい風のふく、なぎ倒すような雨のふる、荒れ狂った野分の過ぎた翌朝の景色。散り敷かれた葉や草。露に濡れる木々。澄んだ空。とても心が惹かれる。
台風一過の空の青さも、梅雨の長雨のあいまにさす日差しも、はっとするほどきれい。

ゆうべのしずくを湛えたまま光りだす景色にいつも、しんとした気持ちになる。

雨上がりがそうであるように、病み上がりもまた、世界がはっとするほど美しく見えるときがある。


昔、子どもだったころ。家のとなりにある西の畑で野焼きの火を焚いていたとき、すべてのものを焼き尽くしたあと、ふと見る風景がとてもきれいだった。
澄み渡るように遠くまで見えて、ふだんの目では見えない芯のほうまで透けて見えるようで、世界のほんとうの美しさにふれたような気持ちになり、自分は遠ざかって、あるいは透き通っていって、あの感覚をどう表せば伝わるのだろう、でもとにかく、しんとした気持ちになった。
ほんのいっときだけ、世界が透徹して美しくなる。
その感じは火を焚くとき以外、めったに起きないことで、大人になったらより減ってしまった。
でも病み上がりのとき、ごくまれに、そんなふうになるときがある。


今までなんどもあったように、また先週体をこわし、しばらく寝ていた。
起きあがれるようになったら、歩いた。
遠くまで行って、渓谷の近くをただただ歩く。

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芽吹きはじめた木々をひとつひとつ見ていた。

萌え出した若葉は黄緑色で、まだ色味の個体差がすくなくて、ひとつの木につく葉はすべておなじ絵の具で塗ったみたい。そんな淡い単色の靄がかかったような木々たちが、いくつもいくつも立ち並んでいた。
色味は似ていても、それぞれの木々で芽吹きかたは、てんで違う。
でもそのひとつひとつのありようが、きれいだった。

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楓。翼をひろげた鳥のよう。


ほんの一瞬の命のすがた。
頭がじょうずに使えない病み上がりの目には、いつもなら感じないほどの澄んだ色味と光が見えた。


昔、臨床心理士さんに言われたことがある。

「たしかにあなたは具合の悪い日が多いかもしれません。でも具合の悪い日に注目してはだめです。良かった日に丸をつけてください。必ず具合の良い日はあるんだってこと、認識できるように」

それからしばらくは、カレンダーに丸をつけていた。週に1回くらいの割合で、丸はついた。

あれから、どんなに具合の悪い日が続いても、いつか必ず来る具合の良い日のことを、どこかで思い出せるようになった。


また今回体をこわして、でもいままでなんども倒れては起きあがってきた経験から、なすべきことはわかっていた。
とにかく寝ること。起きられるようになったら、自然の近くで、ぼうっとすること。そうしてしんとして、ひたすらしんとして、時間を過ごすこと。


こわれるかもしれないようなことに対して、よけるとか、かわすといったことがじょうずにできない。
いつもそのまま受けとめてしまう。受けてそのまま倒れる。そうして受けて倒れてまた立ちあがるほうを選びがちで、たぶんそれは、そのほうが楽だからというのもあるし、立ちあがる力への信頼もあるのかもしれない。
でもひょっとすると、ときどき恩寵のように訪れる、あの病み上がりの景色のことを識っているからかもしれない。


ほんのときおり訪れる、澄み渡るような時間のこと。
ほんのいっときの、すべてが透き通って、遠くまで見はるかせるような、しんとした世界のこと。


今回、それが来てくれた。
雨のあがった空がとてもきれいだった。

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澄み渡ってゆくようなこの一瞬の、しんとした世界が、ときどき訪れるということ。
それは常の姿ではないけれど、ふだんはとても遠いのだけれど、でもたしかにあるということ。

倒れそうなときも、倒れたときも、そこから立ちあがるときも、そんなことすべて忘れて日々を歩くときも、どこかにきっとあるその世界のことを、頭の片隅に置いておきたいな、と思う。
私とあなたの生きる場所は、ほんとうはとてもきれいだ。



✴︎


3月、仕事で忙しくしていました。ひと段落してほっとしたとたん体をこわしたのですが、もうすっかり元気になりました。
よく倒れますが、根本的にはとても強いのだと思います。あたたかく見守ってくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。
休んでいるあいだ、記事を読みに行けなくてすみません。
これからは、のびのびやっていくつもりです。無理せず、ゆるやかに。ここにあるものを慈しみながら。
ほんのわずかな時間だとしても、みなさまのそばにいられたらうれしいです。


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