そこにない風景
つよい風が吹くとなんだか呼ばれるようにして行ってしまう原っぱがあって、そのときもふっとそこに行った。
いちめんヨシが生えた広大な原っぱで、ざわざわ風でずっとゆれている。
背丈より高いヨシが林のようにつづくなかに、小さな路がある。ときどきなんにも生えていない広場みたいなところもある。
すこし開けたところに、ちいさな墓石がぽつんぽつんとならんでいて、彼岸花が咲いていた。
昔ここには小さな村があって、川と川の交わるところで、水害がとても多くて、いまはいざというときの貯水池として機能するよう、広い広い原っぱになっている。もう住んでいる人もいない。でもかつてあった村の名残りが、ぽつんぽつんと、残っている。
墓石と梵鐘のわきに咲く彼岸花を見ていたら物音がして、ふと見たら人がいた。その人はさるすべりの花を眺めていて、こちらに気づいてにこっと笑った。
そのときは彼岸花が咲くころだから秋の入りで、たしかに涼しくなっていたのにその年は猛暑のせいで盛夏に花が咲かなくて、秋になってからさるすべりが一気に咲いた。真夏の花が鮮やかで夏が咲いているみたいで、でもほんとうは秋で、私のいるところとその人のいるところ、場所も時間もちがう感じがして、夏から来た人みたいに見えた。
六十代くらいの人。ツアーガイドのベストを着ていた。でもその日、ガイドは定休日だった。ものすごく村上〇樹に似ていた。でも村上〇樹のはずはなかった。村上〇樹を横からパーンとした感じ。ほんのすこし縮尺が縦長。そしてなにより、ほがらかだった。(村上〇樹もほんとうはほがらかかもしれないけどそういうイメージがない。)
なにか見に来たんですか、と聞かれて、口ごもった。ここにあった村のことを私はすこし口に出した。ためらいながら。百年も昔に消えた村のこと。いまどうなってるのかな、と思って。そう言ったら、最近は村のことをたずねてくる人、もうめっきりいなくなりました、と言ってその人はヨシ原のむこうを指さした。
あっちに村のね、住居跡がありますよ。さっきあなたが立ってた高台、あるでしょう。そこは神社の跡です。そこからいちめんヨシ原広がってるの見えたでしょう。
はい。
そのなかに、こんもり木が生い茂ってる丘みたいなのがぽつぽつあるの、見えました?
ありました。
そこがね、住居のあったところです。
基本的にはすべてヨシの生える原っぱになっている、でも住居のあったところは木が残っている、そういう説明をして、案内しますよ、とその人は歩きはじめた。私はついていった。
背丈の高いヨシがどこまでも生えた原っぱを歩く。
住居のあったところや神社はね、地面がすこし高くなってるんですよ。
水害が多かったからですか。
そう。でも住居っていっても人の寝起きするところより、穀倉のほうが高いところにつくってあったんです。水塚って言って。米とか麦とかたくわえておく場所をいちだん高く作ってある。
大水が来ると水塚に逃げるんです。さっきの神社もそう。高いところに逃げる。このまえ台風来たでしょう。ここのあたりもいちめんやられました。でも昔から住んでる人は高いところよく知ってるんですよね。どこに逃げればいいかよくわかってる。
ざくざくゆっくり歩くヨシのあいだの道は人がふたり並んで歩ける程度の小さな路で、ときどきヨシのわきに繁っている草花を説明する案内板があって、固有種だとか珍しい草花だとかがたくさんあるのだとわかる。ここで見られる野鳥もたくさんの種類があって、バードウォッチングに来る人も多い。でもその人は、僕は植物にも鳥にも詳しくないんです、と言っていた。
僕の専門はね、川なんです。
川、
そう。川。川の歴史です。
その人が、なにであるか、わからないし、ガイドさんなのか、そうでないのか、どこから来たのか、いつから来たのか、村上〇樹なのか、○樹でないのか、私にはわからないし、でもとても似ていて、ならんで歩いていて、背丈より高く生えたヨシの間の、小さな路をゆっくり進む。どこにむかっているのかもわからないし、どこかに行ってしまいそうでもあった。ずっと風でヨシがざわざわさわいでいる。
たくさん水害があったこと。河川改修工事で流域変更がなされるまえ、ここに流れこんでいた川のこと。私が気にかけていた村があったころのこと。その人は穏やかに話す。
ちょうど川と川の合流地点で昔から水に浸かりやすくて、湿地帯だったこと。陸だったり水だったりした地面とともに生活していた暮らしのこと。水が出れば舟を浮かべて移動して、水が引けば畑仕事をして魚をとって。そういう日々のこと。
氾濫が数年に一度あるんですよ、それで土地が肥えるから肥料が要らなくてね。いい土壌に勝手になるんです。氾濫は畑を壊しもするけれど肥やしもする。
川っていうのはね。もともとものすごく蛇行してたんです。うねうねしてた。大水が出るたび川の流れが変わるのなんて当たりまえで、あっちいったりこっちいったり。昔は堤もなかったんですよ。川は流れるまま。荒れるまま。それにあわせて人が生活してたんです。
それを近代になって堤をつくって、川をまっすぐに直したんです。
それが良い悪いではなくてね。
その人は穏やかに、ずっとかわらず笑顔のままで、でもそれだけは大切にことばを選んで話した。
川と向きあう人の心が変わったんです。
ふたりで歩いて行ったさき、水塚をそなえたかつての住居跡には大きな樹がいくつも茂っていてそこだけ小さな森のようになっていた。この地域一帯にひろがる慣習として各家にそなえてあったという水害時につかう舟の説明板を見ながらその人は、カスリーン台風のときに使われたのが最後ですね、と呟いた。
ほんとうは年に一回くらい水に浸けたりしていないと舟として使いものにならないんですよ。まだ家にあるところもあるけれど、実質使いものにはならない。でもそれは、治水が行き届いて水害に困らず生活できるようになってるってことでもあるから。
良し悪しではなくてね──そのことばも注意深く伝えてくれていた。いまそういう時代を生きてるってことです。
ふたたびヨシのたくさん生えたなかを歩きながら、ざわざわする風の音を聞きながら、ぽつぽつその人は話をした。ときどき笑顔になってにこにこしていた。ちょうどそのとき咲いていた珍しい花をひとつ教えてくれた。まぁあんまり僕くわしくないんだけど、と言って、そうっと指でふれていた。
毎年毎年、花の咲く位置が微妙に変わっていたりするんですよ、と小さい声で言った。けっこう移動してるんですよね、と。
白あざみがめちゃくちゃ咲いた年があったんですけど。次の年にはほとんど咲かなくって。でもなんだかんだで毎年おんなじようなところに咲くのもあるし。ずうっと見てるといろいろあるんですよね、植物も。
僕は鳥もあんまりくわしくないけど。初夏の終わりから夏にかけては、オオヨシキリがたくさん鳴いて。それもいいですよ。一年中、いろんな時期があります。それぞれいろいろあって、いろんな良さがある。
どの時期がとくに好きですか、と私がきくと、僕ですか、といってすこし考えて、春ですね、と答えた。
毎年ここでは春先にいちめんのヨシを焼く。そのヨシ焼きが大きなイベントになっていて、ごうごうと平原一帯が燃えさかる光景にたくさんの人が集まってくる。その時期のことですかときくと、いや、そのあとです、と言う。
ヨシが焼かれたあと、焼け野が原になるでしょう。そのあと、暖かくなって焼けあとから草がつんつん生えてくるんです。あちこちつんつん。そしていっせいにわーっとのびてくる。ここら一帯がね、あおーくなって。いちめん緑の若い色の平原になるんですよ。きれいでね。僕は一年でいちばん、その時期が好きです。
そうなんですね。春。
そうです。いいですよ。
また来ますね、その時期に。
うん。ぜひ。
ヨシ原をぬけてもといた場所に戻って、さよならを言って別れた。結局だれだったのか、なんだったのか、わからなかった。
秋がすぎて、冬を越して、春になった。そろそろ四月も半ばというころ、ふとあの原っぱのことを思い出した。ちょうどこの時期かもしれない。若葉が生え、ヨシの角ぐむころ。
あの焼けあとに草の生えだす景色を見てみたいから、あの原っぱに行こうと思っている、そんな話を母にしたとき、ないよ、と言われた。
今年はヨシを焼いてないよ。
え。
悪天候でヨシ焼きできなかったんだって。枯れたヨシまだぼうぼう生えて残ってる。だから今年その景色はないよ。
…そうなんだ。
そうなんだ、と私はたしかに言ったのだけれど、そのとき感じた胸の痛みがおもいのほか深かったことのほうに驚いていた。
だれかの見たかった風景が今年ないということ。あの人がどんな思いかな、ということもあるけれども、なにより自分が、わりと傷ついていた。いつのまにか、それは私の見たい風景になっていた。
あのときほんのいっときにしろ心を寄せて話を聞いて、もらった種をおもいのほか大切に育ててしまっていたみたいで、あるべきものが、今年ない、もうそれがこの春どこにもない、ということが、かなしかった。
あのとき話した当人より心を痛めていたかもしれない。その人を想うというより、その人の大切に思う風景への、ほんのちいさな火をいつのまにかもらってしまって、自分のなかでずっと蝋燭にともしてゆらめかせていたようなところがあって、もうそれは今年どこにもないんだと思ったら、見たこともないはずの風景が幻影みたいにゆれてみえる。いちめんひらいた平原の、若い緑が萌えだして、初夏に近づく光をあびて、あいかわらずつよくふく風になびく。
ここにない風景を、ときどき思っている。見たこともないはずの風景をしんしんと想っている。だれかの大切だったもの。かつてそこにあったもの。その人に会うことはもうないだろうし、春、もう一度行くという約束を守れなかったことは仕方ないけれど、でもその風景のこと、たぶんその人が話したときよりもっと深く想っている。
だれかの大切な風景は、そこにないだけで、きっとほんとうはあるんだと思う。もうないから、気になってしまうのではなくて、それがあるから、その存在をたしかに感じるから、こうして想っている気がする。
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